「サラの鍵」見たよ


1942年、ナチス占領下のパリで行われたユダヤ人迫害。それから60年後、ジャーナリストのジュリアはアウシュビッツに送られた家族について取材を重ねていた。そこで、収容所から逃亡した少女サラについての秘密を知る。サラが自分の弟を守ろうと、納戸に鍵をかけて弟を隠したこと。さらに、そのアパートが実は現在のジュリアのアパートだったこと。時を超え、明らかになった悲しい真実がジュリアの運命を変えていく――。第23回東京国際映画祭にて監督賞と観客賞を受賞。

『サラの鍵』作品情報 | cinemacafe.net

宇都宮ヒカリ座で見てきました。


ある一家が住んでいるアパートで過去に起きた出来事を描いた作品でしたが、とてもよかったです。


物語は「60年前にジュリアがいま住んでいるアパートに住んでいたユダヤ人の少女サラの身に起きた事実と、それを調べるジュリアの姿」を描いたパートと「事実を知ったジュリアが今のサラを探し求める姿」を描いたパートの前後半大きく二つに分けることができます。


前半のパートについては強制連行の理不尽さや過酷さ、さらに鍵のかかった納戸に置き去りにされた弟は助かったのかどうかがはっきりするまでの緊張感が嫌というほど伝わってきてみているだけでもしんどかったです。

そんな前半パートで一番印象に残っているのはサラたちが逃げようとしたときに見張りの警察に見つかってしまうシーンです。捕まったサラたちは逃げたいということを彼に必死で訴えかけるのですが、まったく聞く耳をもってくれません。

ところが、そんな彼に対してサラは丁寧に自分の名を名乗り、握手を申し出たところ、相手は態度を一変させて逃亡の手伝いをしてくれたのです。


彼女たちを連行して軟禁しようとしていた警察であるはずの彼がなぜ手助けをしてくれたのか?


そもそも、他者に対して冷酷無比に振るまえるからといって、先天的にS気質な人だというわけではありません。

他者を「自分と同じ個性があって特定可能な一人の人間」として見ず、大勢いる人間の中から適当に抽出された対象*1として扱おうとしたときに、人は誰でもそのone of themに見ている相手に対してひどく残酷になれるのです*2


ここで話を再度映画に戻すと、子どもたちを監視していた警察たちがなぜこれほどひどいことが出来たのかと言うと、対象となる女性や子どもたちをあくまでone of themとしてしかみていなかったからなのです。だからあんなふうに無理やり引き離したりできたのですが、それぞれひとりひとりを個性ある個人、対等な人間としてみた途端に「こんなひどいことをしてはいけない」という理性が働いたんじゃないかと思うわけです。

この作品でいえば、名前を名乗るというのは個人を識別するキーを相手に伝えるという行為ですし、握手を求めるという行為は対等な人間として認めて欲しい、もしくは認めるという行為です。つまり"連行される子どもたちの一人"としてみるのではなく、"名前をもつ一人の子どもとして認識する"よう働きかけたことになるわけです。


登場人物の行動が与える影響やそれによってもたらされる心の機微がとてもこまかく表現されていたところがすごく好きだなと感じました。


ただ、ジュリアがサラのいまをつよく追い求める後半パートについては、なぜ彼女があそこまで固執するのかその執着のモチベーションの源泉が見えなくて、最後まですんなりと受け止められませんでした。


ネットをはじめ、世の中を広く見渡すと「どんなことでも真実を知りたい」と思っている人が多いことにひどく驚かされます。私はどちらかというと「知らなくていいことなら別に知らなくていい」と思う性質なので、自ら興味をもたない限りは"知らずに済ませられることは知らないでおく"という選択肢を選んでいます。


もちろん「知りたいこと」が私にないかと言うとそんなことはまったくないですし、そういった欲求を持つこと自体がよくないとかそういうことではないのですが、この作品におけるジュリアの行動については、そこまで首を突っ込みたくなる動機がまったく見えてこなかったんですよね。乗りかかった船とは言え、あそこまで執着して調べるかなーというところについてはまったく理解が及びませんでした。



公式サイトはこちら

*1:顔のない人

*2:これはいったいどういう理屈なのかと考えたことがあるのですが、いまのところは「とにかくそうなる」ということ以上のことは言えません