「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」見たよ


9歳の少年・オスカーは、「9.11」により突然、父親(トム・ハンクス)を失う。母親(サンドラ・ブロック)が悲しみから立ち直れない中、オスカーは最愛の父が遺したメッセージを探す旅に出るのだが――。

『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』作品情報 | cinemacafe.net

TOHOシネマズ宇都宮で観てきました。


突如おとずれた父親の死と必死で向き合おうとする少年オスカーの姿を描いた物語でしたが、たいへんおもしろかったです。

主人公の少年オスカーは思慮深いけれど感情の扱いが下手なちょっと変わった子なのですが、ひとつのことを始めるとのめり込んでしまうところや感情をためにためこんで一気に爆発させてしまうところなど、どこか自分の子どもの頃をみているようで、否がおうにもつい感情移入してしまいました。


そんな共感をおぼえる内容だった本作ですが、そんな中でも特にわたしが気に入ったのが近親者の死の受け止め方です。

おそらく、オスカーにとっては父親の死というのは初めての近親者の死であろうと思うのですが、その事実をただ受け止めるだけでもたいへんなことだと思うのですが、失った理由がテロというこれまた理不尽で納得できないものなんです。

その状況の複雑さを背負ってでも、父親の死と向き合い、彼が残した言葉に耳を傾けようとするオスカーの姿がとてもいとおしいと感じました。そして本作からは近親者の死を受け入れるためには受容のためのプロセスが必要だということを感じたのですが、それはわたしが初めて近親者の死を受け入れた経験ともよく符合すると感じました。


ちょっと古い話になりますが、わたしが初めて身内の死と向き合ったのは小学5年生で祖父を亡くしたときでした。
あらためて数えてみると、もう20年近く前の話になっちゃいますね...。


祖父のことを書けばたいへん長くなるので詳しいことはまた機会をあらためますが、生まれたときから同居していたわけではなくてずっと離れて暮らしていました。ですが、わたしが小学生に入ったくらいから祖父と同居するようになったのです。


ずいぶんと前のことなので詳しい時期はおぼえていませんが、祖父は亡くなる一年くらい前から食道がんを患って自宅から電車で40分ほどかかる大きな病院に入院していました。投薬治療は無理だったのか何時間もかかる大きな手術をしたことは覚えていますし、これでだいじょうぶだと言われてその回復を待っていましたが、夏のある日、祖父は亡くなりました。


亡くなった祖父の遺体をわたしは何度も見たし、荼毘にふされて骨になったのもちゃんと見たのですが、それでもどうしても人がこの世からいなくなってしまうことが受け止めきれず、実は祖父はこの世のどこかにいるんじゃないかと考えることもありました。


そんなある日。

何が原因だったのか忘れてしまいましたが、急に耳が聞こえにくくなってしまったわたしは、祖父が入院していた総合病院の耳鼻科に行くことになったのです。祖父が亡くなって以来、行ってなかったのでとてもひさしぶりだと思ったことは覚えています。


いざ病院に行って見ると総合病院の耳鼻科ですからやはりそれなりに混んでいて、大勢の人で混みあう待合室でボーっと呼ばれるのを母と待っていました。


そして、ふと「もしかしたらあの病室に祖父がいるんじゃないか」という考えがわいてきたんです。それまで祖父のことはほとんど考えていなかったつもりでしたが、でもあんなふうに思うということは、やはり祖父の死を現実のものとして受け止められていなかったのかも知れません。


とにかく「もしかしたら祖父がいるかも!」と考え始めていまったわたしはどうしても病室に行ってみたいという気持ちを抑えることができなくて、トイレに行ってくると母に告げて2階にあった病室へと走っていきました。


耳鼻科と入院病棟は距離にすると100mも無いくらいだったのでしょうが、やけに遠く感じたのと、病室に近づくにつれて「祖父にまた会えるかもしれない」とすごくドキドキしたことはよくおぼえています。

興奮しながら病室にたどりついてドアを開けてみたら、祖父が寝ていたベッドにはまったく知らないお婆ちゃんが寝ていました。


生きている祖父を最後にみた場所にはもう祖父がいない。
そんな当たり前の事実を自分の目で見て肌で実感したときに「もうこの世に爺さんはいないんだな...」ということを心の奥底から受け止められたような気がするのです。

もちろんずっと前に死んだことは頭ではわかっていたけど、どこかその死というのが現実のこととして受け入れられなかったのかも知れません。そしてこのときの体験こそが自分が祖父の、もしくは人間の「死」というものを受け止めるために必要な儀式だったのかなと感じたんです。



現代のように「人間の死」というのが身近な出来事ではなく巧妙に日常から切り離されている状態においては、近親者の死というのは非日常的な出来事に分類されます。日常の延長ではなく、非日常というまったく別の世界の出来事なのです。


たまに「大事な人が亡くなったのに不思議と泣けなかった」という人がいるのですが、泣くというのは失ってしまったことが悲しくて泣くわけですからその喪失を実感できなければ泣けなくて当然だと思います。生きて過ごすこの日常と違い、死というのは非日常的なできごとだと考えれば、そこには自ずとギャップが生まれて実感をもてないというのもさほど不思議なことではありません。


ただそんなふうに実感をもてなかった人も、初七日や四十九日という一定の時間が過ぎて日常をとりもどしたときに、日常の中に大事だった人の不在を実感することってあると思うのですよ。そしてそのときに初めて大事な人の死、喪失を受け入れるんじゃないかなと。


時間が経てば大事な人を失ったつらさは癒されるし、だからこそまた前向きに生きていくことができるのですが、一方でそれはいなくなった人の不在を受け入れるというつらさもはらんでいるんだなと思うわけです。


本作は、初めて死に出会った少年が死を受け入れるプロセスを描いて物語であると感じたし、その丁寧な手つきがすごくよかったなと思います。


そしてもうひとつ。
オスカーと祖父の関係を描いたところもわたしの中ではすごく評価が高いです。ほんとよかったです。
亡くなってしまった父親の声なき声に必死に耳を傾けるオスカーの姿と、言葉を発することができなくなった祖父の意思表現を一生懸命受け取ろうとするオスカー。


だれかに自分の気持ちを伝えたいと思ったときに、自分はどのように相手に伝えるべきなのかということへのヒントが、この作品にはたくさん詰まっていたように感じました。


ちなみに本作のタイトルは、やたらと長い上に単語の順番が変わってもそれなりに文章の体を為してしまうためになかなかおぼえることができませんでした。ですが、直訳元となった英語のタイトル(extremely loud and incredibly close)だとちゃんとおぼえられるし、そして英語のタイトルをおぼえてしまえば日本語のタイトルはそこから起こせることに気付きました。


まったくもって不思議なタイトルですが、この作品を観たいまとなってはこの変なタイトルにすら愛着をおぼえています。



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