「私という運命について 第三話」見たよ


第三話を鑑賞。



私が死を意識し始めたのは8歳のころだったと思います。
当時、近所に住んでいてすごく仲の悪かった子がいたのですがその子が交通事故で亡くなってしまったことがきっかけでした。顔を合わせればにらみ合うような相手だったのですが、ある日を境にまるで存在していなかったのように消えてしまったことが何だか怖かったことをおぼえています。

寝る前に布団に入ると、自分が死んだらどうなるのか?とか逆に時間をさかのぼったときにどこまで過去が存在するのか?とかあれこれ考えては不安で眠れなくなることが増えました。そのたびに同居して横に寝ていた祖母を起こして泣きながら相談するのですが、そういうときは仏壇の前に行って拝んで来いというよくわからないアドバイスをくれるばかりでまったく解決することはありませんでした。

ばあちゃん...。

その後10歳のときに祖父を亡くしたときには遺体を目の当たりにしたり、火葬から埋葬までひととおりを体験したことで死は一層現実味のある恐怖としてわたしの中に入り込んできました。日中楽しく過ごしているときはいいのですが、夜寝る前になるといつも「このまま目が覚めなかったらどうしよう...」なんてことを妄想してはその考えに怯えることをくりかえしていました。


結局、いつまでそんなふうに死に怯えていたのかおぼえていませんが、ふと気付くと自分の死というモノに以前ほど怯えていないことに気付きました。もちろん死ぬのは怖いし嫌だし考えるだけでブルーになるのですが、でも子どものときに抱えていたような想像もつかない身がすくむような怖いものではなくてもっと現実的な恐怖に変わったような気がします。


本作3話目は生の結末としての死とそれが周囲にもたらす影響がテーマとして描かれていた回でした。

生まれつき心臓病を患っている弟の妻。
その体の弱さから子どもを産むことはもちろん、子どもを宿すことさえ無理だろうと言われていたのに身ごもってしまった彼女は何の迷いもなく子どもを産むことを決意します。先天性の病気を抱えていたゆえに物心ついたときからなにを選択してもそれは死へのカウントダウンを早めることになっていた彼女は、いつだって何かを選び取るときは命がけだったしそうやって生きてきたのです。

そんな彼女の強さがちゃんと描かれていたからこそ、自らの命を危険にさらしてでも子どもを産むことを選択したことはすごく自然に感じられました。だからこそそれが叶わなかったことへの絶望の大きさ、残された家族のつらさもとても強烈に伝わってきました。


大事な人の死がどれだけ人をむしばむのか。

私は祖父母以上の近親者は失ったことがありませんがそれでさえもとてもつらい経験でした。
もし、もっと近い人がいなくなってしまったらと想像するだけでもういてもたってもいられないくらい不安になります。自らの死の恐怖よりも大きく、そしてどこかリアルに想像できてしまうがゆえの怖さを感じます。


大事な人を失うことは容易に想像できるけど、いままで当たり前のように歩いていた人が足を失うような、いままで普通にしゃべっていた人の口が無くなってしまうようなそんな大きな喪失を抱えて生きている姿をわたしはとても想像できません。


その喪失から人は立ち直れるのか?

どうやったら立ち直れるのか?


ドラマを観ながらひたすら自分に問いかけずにはいられませんでした。



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