祖父の思い出

今日、ディスクの整理をしていたら今年の3月に書いたテキストが出てきました。
マコ*1にだけは読んでもらったのですが、ファイルを無くしてしまう前にブログに載せておきます。


わたしは生まれてからの18年間。秋田の片田舎にある父の生家で育ちました。

父と母、私と弟と父方の祖母といっしょに住んでいましたが、父方の祖父とは同居していませんでした。と、言っても祖父と祖母が離婚していたとか、生まれたころには実はもう死んでいたというわけではなく、祖父は車で20分ほど離れた病院にわたしが幼い頃からずっと入院していたのです。当時は何の病気なのか誰も教えてくれませんでしたし、お見舞いに行っても病室で会えるわけではなく面会室と呼ばれる部屋で面会していたことをとても不思議に感じたことをよく覚えています。


いまでもはっきりとそうだったと教えてもらったわけではありませんが、当時のことを思い返してみると、祖父にはお酒にまつわるひどい失敗話がいように多かったです。それを考えると、祖父はアルコール依存症になっていてその治療のために入院していたのではないかと思っています。

さて。

病気が回復したのかそれとももうどうしようもないとさじを投げられたのかはわかりませんが、祖父は私が小学校に入ったくらいに病院を退院していっしょに暮らし始めました。
同居する家族が増えたものの、目に見える変化は意外なほど小さくてあっという間に祖父は日常の中に溶け込んでしまいました。


日常で変わったのは大きく3点ありました。

ひとつめは祖母の部屋でわたしと祖母二人で寝ていたところに祖父が加わりました。寝る場所が狭くなったのはしょうがないとしても、いびきがうるさいのには参りました。

ふたつめの変化はご飯を食べるときの席が変わったことです。
もともとわたしが座っていたところに祖父が座るようになり、その横にわたしが座るようになりました。端っこに追いやられた形になったため、おかわりがしにくくなったしおかずも取りにくくなりました。

そしてみっつめの変化はお風呂には母や祖母とではなく祖父と入ることが増えました。
母や祖母との違いは洗うときの力が強くてすごく痛いことと、祖父の背中からはそれまで嗅いだことのない匂いがしたということです。匂い自体は嫌いではなかったのですが、この匂いを嗅ぐとよく頭痛がしたので祖父の背中に回ったら息を止めるようになっていました。


そんなふうにいっしょに暮らし始めて分かったのは、祖父は手先の器用な人だということでした。

自宅の横にあった小屋も自分で材料を買ってきてひとりで作ったようですし、その小屋にはおびただしい数の工具があってその工具を使って自分の使うもの全部を作ってしまうような人でした。しかも記憶力もやけによくて、祖父の工具を少しでも動かすとすぐにばれて怒られました。
一度、その工具を持ち出して近所の空き地にあった大きな岩を壊そうとしたのですがもちだしたことがすぐにばれてしまい、激怒した祖父に手近にあった野球の軟球で殴られるというたいへん痛ましい事件も起こりました。戦争を生き抜いた老人らしいアグレッシブさは子ども心に恐怖をおぼえたのですが、多少の大人げなさはあるけれど自分の大事なものをむげに扱った生意気な小学生に対する仕打ちとしてはしごく当然のことだといまでは思います。

そして何よりも印象に残っているのは、祖父はわたしの知っている他の大人と違ってなににも縛られない自由な人だったということです。

祖父は車の免許をもっていなかったのですが、その代わりどこにでも自転車に乗って出かけて行きました。祖父は年寄りらしく朝起きるのが早かったのですが、朝早くに自転車に乗り込んで出かけると夜まで帰ってこないということが何度もありました。
どこに行ってきたのか誰にも言わないので、いったい何をしていたのかというのは完全にブラックホールなのですが、たまに能代市(うちから車で1時間離れたところにある市)や大館市(うちから車で3時間離れたところにある市)で自転車に乗っているところをみかけたという情報が近所の人や親戚から寄せられました。

能代や大館には親戚はいませんし、祖父に友だちがいたということもなかったと思います。そもそもそれが本当にうちの祖父だったのかどうかも怪しいですし(個人的にはたぶん祖父だったんじゃないかと思っているけど)、行っていたのであれば果たしてなにをしに行っていたのか想像もできません。


それとこれは母から聞いたのですが、夜になっても帰ってこなくて心配して待っていたらお酒を飲み過ぎて歩けなくなり、道路の真ん中で寝ていたこともあるらしいです。危うく車にひかれそうになり、警察に呼ばれて迎えに行ったことがあると言っていました。


冒頭でも書いたとおり祖父にはお酒にまつわる伝説が多いのですが、わたしもひとつ実際に経験した話があります。

祖父といっしょの部屋に寝るようになってしばらくすると、みんなが寝静まった夜中に祖父がゴソゴソと押入れに向かってなにかしているのを見かけるようになりました。声をかけるわけにもいかず、寝たふりをして様子を見ていると何かを取り出して飲んでいるのが見えました。どうやら止められていたお酒を隠れて飲んでいたようでしたので、普段の仕返しとばかりに両親や祖母に言いつけてやりました。そのせいで隠し持っていたお酒も取り上げられたり、いろいろと言われたりしたようなのですが、結局その行為は本人が体調を崩して入院するまで続きました。

また書いているうちに別の話を思い出したのですが、うちの実家は歩いて5分くらいのところに海があるのですが、ある日海辺でウミネコを捕獲してきて家で飼おうとし始めました。なぜウミネコなのか?といまでも不思議でならないのですが、動物が大好きだったわたしと弟はたいへん喜んで数日世話をしたのですが、さすがに周囲からいろいろと言われたらしくある日なにも言わずに海に返してしまいました。かわいがっていた矢先に取り上げられたわけですからとても悲しかったことはおぼえています。

それと祖父にはいろいろな噂がありましたがその中でも一番強烈だったのは祖父には隠し子がいるという噂でした。

うちは資産家ではないので隠し子がいようがぜんぜん影響はなかったのですが、噂とはいえ、近親者にそんな話題があること自体がとてもショックでした。そもそもどこまでが本当だったのかはいまとなっては分かりませんが、いつも頭にポマードを付けてイケメン気取りだったことや家族への無愛想さからは想像できないほどに外面がいいところ、そして決して他人に媚びないひょうひょうとした立ち振る舞いを思い出すにつけ、あの爺さんならそのくらいのことはやってそうだなという気がしてなりません。

いまとなっては自由人過ぎる祖父に人間的な魅力を感じるわけですが、いっしょに暮らしていた当時は「いい加減な大人」としか思えず、そんな祖父のことがあまり好きではありませんでした。そのときの私はルールを守ることや真面目に生きることが大事だと固く信じていた堅物だったわけですよ...。


いろいろとありながらも祖父との生活が特別ではなく日常になったある日。

具体的な時期はおぼえていませんが、元気な祖父にしてはめずらしく体調を崩したことがありました。もともと病院嫌いだった祖父は、しばらくは市販の風邪薬などでごまかしていたのですがなかなかよくならず、近くの個人病院へ行ってみてもらいました。そこでは風邪だと診断され、しばらく(たしか約1ヶ月近くだったと思います)は風邪薬を飲んで過ごしました。

ところが、いつになっても体調がよくならないために近くの総合病院に行くもののそこでは検査ができないと言われ、結局自宅から電車で40分ほど離れたところにある大きな総合病院に行き、そしてそこで食道ガンだということが判明したそうです。


祖父はすぐに入院をし、そして冬の寒い日に半日以上もかけて大きな手術をしました。
長時間にわたった手術は成功したと言われましたが、その代償として祖父の体に大きな傷を残しました。痩せ衰えた祖父の細い体の前と後ろには大きく体を割いた跡が残り、それを見た時に何と言っていいのか分からないくらいの衝撃を受けました。手術と言うのが体にメスを入れることだというのは知っていましたが、まるで魚を三枚におろしたような傷がほんとうにおそろしくて何度も自分が切り刻まれる夢をみました。

手術は成功したと言われましたが、術後劇的によくなったという記憶はありません。手術が終わってからも病状はあまりよくならなかったのか、それともわたしがまだ子どもだったので知らなかっただけなのか分かりませんが、わたしは祖父のいる病院にはあまり連れて行ってもらうことはありませんでした。平時は両親と父の兄弟が交代で夜通し看病し、祖母と2歳年下の弟とわたしの3人は自宅で留守番をして過ごしました。

病院に行くのは週に一度か二週に一度、もしかしたらもっと少なかったかも知れません。
両親といっしょに車に乗って連れて行ってもらうこともあれば、弟と私が二人で電車に乗って病院まで行くこともありました。当時は土曜日がまだ学校の休みではなかったため、病院に行くのは日曜日が多かったのですが、日曜日は親戚や近所の人もお見舞いに来ていることも多くて病室の中はいつも人であふれていたしとてもにぎやかでした。


この当時の病室の中でのことを思い出してみると、祖父が大病を患っていて家族が毎日看病しているというたいへんな状況だったはずなのに、病室の中はとても満ち足りた空気だったように記憶しています。誤解を恐れずにいえば、すごく幸せな空間だったような気がしてならないのです。

最初は過去を美化しているだけに過ぎないと思っていたのですが、ある映画を観てその記憶が決して美化されたものではないことを確信しました。

その映画は「エンディングノート」という映画です。

この映画は監督がご自身の父ががんを宣告されてから最期を迎えるまでを撮られたセルフドキュメンタリーでして、死に際しても周囲を気遣い今この瞬間を精いっぱいに生きる姿につよい感銘を受けました。父親の最期を映画にするというのは、やろうと思ってもなかなかできないことだと思います(いい意味でも悪い意味でも)。


さて。

この作品の中で一番印象的だったのは、お父さんがいよいよ危ないとなって入院したときにもう二度と会えないと思っていたアメリカに住んでいる息子家族がくるシーンがあるんです。もう書くために思い出しているだけで泣きそうになるのですが、父親が最期を迎える前にもう一度孫たちの姿を見せようと産まれたばかりの子どもを含め3人の子どもを持つ息子夫婦がわざわざアメリカから何度も足を運んでくれたのです。

死ぬか生きるかの瀬戸際といってもいいくらい生死ギリギリの状況をさまよっていたお父さんが、孫たちの声を聴いた瞬間にハッと反応するんですよ。そしてそんな死に瀕しているお父さんを家族全員が囲んで見守っているという空気の中で、砂田監督のお母さんが「なんだか天国にいるみたいだね」と一言発するわけですが、わたしはその言葉を聞いた瞬間にふと祖父が入院していたときのことに似たような経験をしたことを思い出していました。そして闘病している本人もそれを介護する家族も大変なんだろうけど、でもそのつらい状況が普段は離れて暮らす近しい者同士が肩を寄せ合っていっしょの時間を過ごすきっかけになるということにわたしはどこか救われるような気がしました。

結局、祖父は退院することなくそのまま亡くなってしまったけれど、わたしにとって初めての近親者の死となった祖父の死は葬祭のたいへんさや火葬の怖さ(たぶん火葬を目の当たりにしてから閉所恐怖症になった気がします)を教えてくれました。「夏の庭」ではないけれど、やはり遺体と直接向き合うことってすごい経験だったし、それはいまでもそう思っています。


(関連リンク)

*1: