「荒野の用心棒」見たよ

ある日、ニューメキシコの小さな町サン・ミゲルに、ジョーと名乗る男が現れる。そこは無法者のロホ兄弟と保安官のバクスター家という二つの暴力集団が、町の支配権を巡って対立している無法地帯だった。

ジョーはその類稀な早撃ちの腕前で自身を助っ人として売り込みつつ、巧みに両陣営の抗争を煽っていく。

荒野の用心棒 - Wikipedia

TOHOシネマズ宇都宮にて。午前十時の映画祭にて鑑賞(4本目)。


前週の「ダーティハリー」に続いて待望のイーストウッド作品を観てきました。
ダーティハリーのエントリーのコメント欄でmaruさんにこの作品をおすすめしていただいていたので楽しみにしていましたが、その期待以上に満足できる作品でした。


誰もが認める早撃ちの腕前をもち、さらに頭もキレるジョーが活躍する様は観ていて非常に楽しかったのですが、一点とても不愉快だと感じたシーンがありました。それはバクスター一家が無法者たちに蹂躙されて全滅させられるというシーンです。
そもそもバクスター一家が襲われるきっかけをつくったのはジョーであり、バクスター一家はそのとばっちりを受けたと言っても過言ではなく、理不尽にも殲滅させられるのです。煙であぶりだして出てきたところを銃で撃つというひどい手口は観ていていたたまれせんでした...。


ところが肝心のジョーはその一部始終を安全な場所から高みの見物を気取り、全員が殺されたのを見届けたら「ショーは終わりだ、町を出てくれ」なんて偉そうに抜かすわけですよ。
「おいおい、みんなが殺されたのはおめーのせいじゃねーか!!」と、もう腹が立って何だか一気にジョーが嫌いになりそうになったのですが、冷静にこれまでのジョーの行動や発言を思い返して考えてみると、果たして本当にジョーはそんな意図であの光景を見ていたのかどうか疑問に感じたのです。
疑問というか、もしかして違うんじゃないかという直感。
そしてその時に思い出したのは「さまよう刃」という作品のことでした。


東野圭吾さんの「さまよう刃」という作品は、死ぬほど苦手な内容だけどとても好きな作品のひとつです。
映画化もされたとても有名な作品なのでいまさら説明は不要かも知れませんが、簡単にまとめると一人娘を凌辱されて殺された一人の男性の復讐を描いた作品でして、娘のいるわたしにとってはとてもいたたまれない内容でした。大事な子どもを奪ったクソみたいな奴らに復讐をしようとする父親の気持ちがストレートに伝わってきたのですが、作中でこの父親がとっていたある行動はわたしにとても大きな衝撃を与えました。
それは、犯人が残していた娘が凌辱される映像を繰り返し見るという行為です。
この世でもっとも観たくない映像と言ってもいいほど、絶対に観たくない映像をあえて観るというその行為は何を目的としていたのか。それは「怒りを絶やさずにためる」ための行為だったのです。


「時がすべてを解決する」という言葉が示すとおり、どんな悲しいことも辛いことも時間はすべてを風化させていきます。
忘れるのは人間のもつ自衛機能だと思いますし、未来永劫変えることのできない過去にとらわれないように忘れることは決して悪いことではないと思います。どんなことも自然と忘れていくというこの機能は、人が人として生きていく上で必要不可欠だとさえわたしは思うのです。


娘を凌辱された上に殺されたときにおぼえる筆舌に尽くしがたいほど怒り。
一生消えることはないと思えるほどの激しい怒りも、時間が経てば経つほど徐々にその激しさは息をひそめるようになるのです。もう自分にはどうしようもないんだという諦観がそうさせるのかも知れませんが、理由はどうあれ、その怒りはいつか悲しみに姿を変えてしまうのです。
身をもってそのことを感じていた父親は、復讐を果たすために怒りを生み出す源泉を焚き付けて怒りを燃やし続けたわけです。死んでも観たくないものを目にすることで、怒りを怒りとして自分の中にため続けたのです。


話を元に戻しますが、結局ジョーがどういうつもりであの凄惨な場面を観ていたのかは分かりませんが、あそこに至るまでの彼の行動や発言を総じて考えると、ジョーは怒りを絶やさぬために、自身の目にあの映像を焼き付けていたんじゃないかと思うわけです。
思うというか、ジョーがただの下衆ではなくて、そういう正義漢であって欲しいというわたしの願望でもあるわけですが、ただそう考えると全体の流れ的に腑に落ちるのも事実でしてわたしは誰が何といおうとそう思うことにします!


この作品のオリジナルと言われている「用心棒」は未見なのでどのくらい参考にされているのか分かりませんが、この作品自体が非常に面白くてよかったです。西部劇っていいなあ。


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