「さまよう刃」見たよ


最愛の娘を少年たちによって殺された長峰寺尾聰)。しかも少年法の存在によって、加害者の少年たちは保護される立場となる。しかし、突然の電話で長峰は犯人の名前と住所を告げられる。娘を失った怒りと少年法という壁への憤りから、長峰は自らの手で加害者の少年たちを裁くことを決意する…。東野圭吾のベストセラーの映画化作品。

『さまよう刃』作品情報 | cinemacafe.net

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MOVIX宇都宮にて。


昨年読んだ本の中で、読んでしまったことを後悔した本が2冊あります。
一冊は乙一の「失はれる物語」。


失はれる物語 (角川文庫)

失はれる物語 (角川文庫)


ある日交通事故で全身が動かなくなってしまった男性の物語なのですが、体は動かない、目も見えない、ほとんど何も感じることが出来ないという閉塞感でいっぱいの状況を、まるでその立場に立っている人が途方にくれながら書き綴ったような生々しさには読んでいるだけで動悸が激しくなってくる思いでした。
これほど読んでいて辛い本はなかったなあ....。


そしてもう一冊がこの映画の原作である「さまよう刃」です。


さまよう刃 (角川文庫)

さまよう刃 (角川文庫)


自身の命よりも大事に思っていた娘を失う辛さ、その愛娘に陵辱の限りを尽くした許しがたい人間の存在そのものに対する憎悪。そしてその犯罪者が未成年というだけの理由で社会的な制裁をほとんど受けることがないという現実への絶望。
生きること、生きていることそのものに対するネガティブキャンペーンとも言っても過言ではないほど、現実の厳しい部分を寄せ集めて物語にされてしまうとやりきれない思いでいっぱいになります。世の中にはこんなに辛いことがあるということを知ってしまったが故に、わたしのこれからの人生にも何かしら影を落とすことは間違いないでしょう。
子どもが学校から帰ってくるのが遅いときなんか、この作品を思い出したら平常心なんて絶対保てないですよね。
そういう意味では読まなければよかったと思う気持ちもなくはないです。


そんな原作を元に作られたこの映画版は、原作のストーリーをちゃんとトレースしている点はすごくよかったのですが、やはり400ページの物語を2時間に収めようというのは無理があるなと感じさせられました。

例えば娘を失った長峰の絶望の深さは伝わってくるんだけど、でも原作に比べたらその苦しみが全然足りなくて、全然そうじゃないよと声を荒げたくなってしまうのです。ビデオを見た時の発狂してしまいそうなほどの悲しみと憎悪や、伴崎をめった刺しにしたときのような衝動的な殺意表現。大事な娘を陵辱された人間の苦しみが、原作と同じくらい感じられたかと言われると決してそうでありませんでした。ただ、年齢制限を設けずに多くの人に観てもらうためにはこの程度の変更はしょうがないのかも知れません。


ですが、ラストで長峰が打ったのは空砲だったというのはもう最悪の変更です。これはありえません...。今でもわたしの見間違い、聞き間違いだったんじゃないかと思っているほどです。
長峰がその選択をしたということは、娘を殺した犯人を改心させようと考えていた事になるわけです。この作品は、被害者家族の悲しみの深さを知り、これを救えない現在の司法制度はおかしくないのか?と主張することが主題であったはずなのに、生きて償えみたいな決断をしてしまうことは作品のテーマの根本を揺るがす大きな改変です。
自分がその相手を殺すのは社会倫理上よくないというのは分かってる。分かっているけれど...という長峰の苦悩をなぜ描ききれなかったのか、本当に残念でなりません。長峰織部たちの心理描写が足りないというのは時間の都合上しょうがないと割り切りましたがこれだけはどうしても容認出来ませんでした。


ひとつの物語としてはよくまとまっていますが、原作ありきで考えれば映画化は成功とは言えないと思います。
作品の概要はしっかりトレースしていますが、作品のエッセンスを取り込む事には失敗したなと。そこだけがとても残念でした。


この作品に言及するにあたって、少年法の存在というのは避けて通ることが出来ません。
長峰が犯人を自分の手で殺してやろうと決意したのは単なる復讐心からだけではなく、自分が手を下さなければこの犯人たちに鉄槌を下されることはないと知っていたからです。未成年だというだけで、犯罪を犯したことに対して罰を与えることよりも更生の機会を与えることを知っていたからこそ、彼は自分がやらねばと奮い立ったわけです。
現在の法制度では被害者心情よりも加害者の更生が優先されているという実情に対する批判がこの作品にはこめられており、この作品を観終えた人に聞けば、この批判に賛同する人はたくさんいるのではないかと思っています。
わたしも昔から少年法の意義がまったく理解できなかったし、子どもだろうと大人だろうと悪いことをしたら相応に罰せられるべきだと思っていました。子どもなんて大人が思っているよりもずっと賢いんだから、更生なんて甘っちょろいことを言わずに罰してしまえといつも思っていたのです。


ところが今年観た2つの映画を観て以来、わたしの気持ちは少しずつ変わってきました。
その映画というのは「誰も守ってくれない」と「BOY A」です。


「誰も守ってくれない」は未成年犯罪を犯した加害者の家族に対する社会制裁の怖さを描いた作品です。



加害者や加害者家族を罰するのは司法だけではないのだという実情をとてもよく描いていて、観ていて身震いしてしまうほどでした。世間が許さないっていう言葉は今でもちゃんと生きてるんですね...。
それと、インターネットが広がったことで私刑が助長しているような描写があったのですが、たしかに犯罪告白をした人が祭り上げられている現状というのはそう捉えられてもしょうがないのかも知れません。ものすごく一面的というか、側面的な部分ではあるんですけどね。


犯罪者とその家族にはもう生きる資格はないのかどうか、また、犯罪者を裁くのはいったい誰なのかということについて考えるきっかけになった作品でした。



そして「BOY A」は、犯罪を犯した少年が社会復帰を試みるが....というお話。


BOY A [DVD]

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「犯罪、それも殺人などの重い犯罪を犯すような未成年はどういう人物だと思うのか?」と問われてわたしが想像するのは、少年法をたてにして「悪いことをするなら未成年のうちが得だぜ、ヒャッハー!!」なんて腹黒いことを考えている狡猾な人物の姿です。別に具体的な事例があってそのようなことを想像するわけではなく、何となく想像したときに思い浮かんだのがこの姿だったのです。
ところが実際にはそうではなく、意図せず法に触れる悪事を働いてしまった少年もいるという当たり前の事実を見逃してはいけないことをこの作品は教えてくれます。意図せず犯罪に手を染めてしまうことは誰もが犯しうる可能性があるという事を忘れていたつもりはないのですが、ことが少年犯罪だというだけで偏見じみた犯人像を作り上げてしまうのです*1


きっと被害者や被害者家族は加害者を一生許せないだろうし、それはそれでしょうがないと思うのですが、一方で被害者でもない人までもが徹底的に加害者や加害者家族を追い詰めていくことは果たして正しいのかどうか。


「犯罪者がのうのうと生きているなんて許せない」と思う気持ちもよくわかる。
「死んでわびろ」といいたくなる気持ちもよくわかる。


でも....。


「BOY A」を観終えたときに、この"でも..."に続く言葉が頭の中でぐるぐると回っていました。


わたしが未成年犯罪者に対してもっていた偏見に気づかせてくれた作品でした。


このあたりをひととおり観ておけば、未成年犯罪や少年法に対する考えがまた変わってくるかも知れませんし、少なくともわたしは大きく影響を受けたと感じています。


(参考)


公式サイトはこちら

*1:少年犯罪の報道は大きく規制されることも影響しているんじゃないかなとは思いますが、だからといって報道することがよいかと問われるとそれも違うよなあとは思うんですよね