わたしは初めてちゃんとコンピューターに触ったのがLINUXだったし、その後修論を書き終わるまでその環境にお世話になっていたということもあって、大学生の頃はオープンソースが大好きでした。ソースコードをオープンにすることで、誰でも読める、メンテナンス出来る状況にあるということがとても魅力的に感じていました。
逆に、自らのソースコードは絶対に公開せずにブラックボックスにしているマイクロソフトは何だか閉鎖的な印象を受けてあまり好きにはなれませんでした。
いま思うと恥ずかしいくらいに視野狭窄状態なのですが、でも当時の私は「オープンにすること自体がすばらしいことだ」と本気で信じていたのです。
ソースコードをオープンにすることの良い点と言えば、中身を誰でも読めることにあります。
似たようなことをやろうとしたときの参考になりますし、自分だけの改変を加えたものを作ることも容易にできます。もちろんそれぞれにライセンス形態は異なりますのでそれによって配布できるとか改変できるとかには制限が加わりますが、とにかく多くの人が無償でその恩恵を受けることが出来るのです。
また、ソースを書いた人は自分の作ったものをたくさんの人に使ってもらえて満足できるわけで、オープンにすることが関わる全ての人にとって幸せになれる土壌が出来ていると言えます。
あれから10年近くコンピューターに触り続けてきましたが、オープンソースにはオープンソースでデメリットもありますし*1、逆にクローズドだと忌避していたマイクロソフトもちゃんと向き合ってすごく魅力ある部分が見えてきたのです。マイクロソフトの良さというのは企業ユーザーとして付き合ってみると、個人として利用していた時とはまったく違った見え方があってすごく面白いです。
つまり立場や見方が変わればオープンであることがメリットにもデメリットにもなるわけです。当然と言えばたしかにそのとおりですが、「オープンであること」は常に最善であると信じて疑わなかった過去の私のような人がいないとも限りませんし、実際にそういう人*2が少なからずいることをわたしは知っています。
ここで例に挙げたオープンソースに限らず、「オープンであること」は正しいことであり、「クローズドであること」は正しくないことであるということを信じている人はいます。しかもそんなにマイナリティでもないというのがわたしの印象。
では。オープンであることが正しさを担保しない例を考えてみます。
企業でも行政でもいいのですが、何かの意思決定がなされる時に、それが誰からも見えない会議室で決められるのか、それとも決定プロセスをすべて公開するのかというケースを考えるのがよい事例になると思います。
何かを決めた際に「どういう議論があって決めたのか分からない」という事案に対して「どうやって決めたのか分からないなんて怪しい!」と感じる心境は何となく理解できます。そして、仮にその決定プロセスをオープンにしたとすれば多少その疑念も払しょく出来るというのも首肯できるのですが、当然大人の事情(←便利な言葉)もありますので、世の中の多くのことはクローズドな場所で検討されて決められるのです。何でもかんでもオープンになんかしません。
では、決定プロセスがオープンではないものはすべてが怪しくて間違っているのかとか、ちゃんと検討されてないかというと決してそんなわけはないんですよ。もし、クローズドなところで決めたことは全部疑わしいなんて言い出したら大変なことになっちゃうわけですし、実際にそうじゃないということは誰もが知っていることなのです。ただ、見てない・分からない部分については想像するしかないわけで、そこに邪推が入り込む余地と言うのはどうしてもあります。
もし、そういった疑念を持たれることなく議論の結果を受け入れてもらおうと思った時に初めて、その決定プロセスを公開しておくことに意味が出てくるのです。つまり「決定プロセスを公開することは公開者が自らの正当性を担保するため」なんですよね。公開された情報を観ている人たちのためじゃないんです。そこを勘違いしちゃいけない。
オープンソースは公開する人もその恩恵を受ける人もどちらも得をする仕組みだったけど、決定プロセスの公開はそうじゃないんですよ。
オープンであることはそれだけでは正しいことでも何でもないんです。
例えば、ダダ漏れという言葉を真に受けて何でもかんでもネットに流すことが正しいことだと疑わない人もいるようですがそうじゃないんです。何でもかんでもオープンがいいのであれば、服なんぞ着ないで裸で歩けばいいじゃないと、ガラス張りの家を作ってそこに住めばいいじゃないと。極論とか言いがかりレベルなのは承知していますが、でもオープンであることが正しさを担保するというのであれば、全部オープンにして生きてくださいと言いたくなるのです。
物事をオープンにするのは、本来は「オープンにする側の都合」であることを理解してほしいと思います。
オープンであることは正しさを担保するものではありません。