「時をかける少女」見たよ


大学進学を控えた芳山あかり(仲里依紗)は、入院中の母・和子(安田成美)に代わって1970年代にタイム・リープ。その目的はただひとつ、昏睡状態に陥った母の初恋の人・深町一夫(石丸幹二)に出会うため。自分と同世代の若き頃の母と、幼い頃に別れたきりの父との意外な青春時代。そして、深町探しに力を貸してくれる映画監督志望の大学生、涼太(中尾明慶)との出会い。電話もメールもない時代に生きる様々な人々との出会いを通して、あかりは成長していく ――。筒井康隆の「時をかける少女」の実写化作品。原作小説の主人公・芳山和子の一人娘・あかりを主人公にした新たな物語として描かれる。

『時をかける少女 (2010)』作品情報 | cinemacafe.net


映画の結末に触れている部分もあるので未見の方はご注意ください。


MOVIX宇都宮にて。
公開初日の13日と2週間後の28日の2回鑑賞したのですが、2回見てもなお新しい魅力に気付かされるすばらしい作品でした。まだ4月上旬ですが、今年のベスト作品の一角を担う作品としてリストアップしておきます。


自分以外の誰かに気持ちを伝えたいと思ったとき、多くの人は言葉を重ねることで相手にその思いを伝えようとします。言葉を伝える手段は手紙だったり会話だったりさまざまでしょうが、同一の言語圏内であれば容易に意思疎通が出来る言葉の役割というのは非常に大きいと言えます。言葉がなかったら果たしてわれわれは日常生活を営むことが出来るのかと不安をおぼえるほどなくてはならないものなのです。
ところが言葉というのは誰でも容易に使える反面、正しく伝わらないことも少なくありません。言葉というのは発信者が自分の意思を言葉に置き換えるという処理、そして聞いた人が聞いた言葉を自分自身の理解に置き換える処理が起こるためにその変換の家庭生まれた齟齬が相互理解を邪魔することもあるのです。簡単なようで難しい。言葉というのはなかなかやっかいです。



ではどういう方法だったら気持ちは伝わるのかというと、一般的には言葉以上のものというのはなかなか見つかりません。日常でもっとも使われるコミュニケーションツールが言葉であることからもわかるとおり、多少の齟齬を生む可能性はあるにしても言葉というのはやはりすごく便利なツールなのです。



では言葉の代わりになるものは何もないのかと考えたところで、わたしは「虹の女神」という作品の中であった「飛行機事故で亡くなった女性(以下あおい)のお葬式後にみんなで彼女が撮った自主制作の映画を見るシーン」を思い出してしまうのです。


虹の女神 Rainbow Song [DVD]

虹の女神 Rainbow Song [DVD]


あおいの撮った自主制作映画「The End Of The World」という作品について簡単にまとめると、一週間後に隕石が地球に落ちて滅びることが分かったんだけど大好きな恋人はその写真を撮るために南極に旅立ってしまって...という話です。この作品(自主制作映画)で主役を演じるのがあおいであり、あおいの恋人を演じるのがリアルでもあおいが想いを寄せるトモヤという青年なのです。
そもそも映画の中で映画を撮るという話なので構造的に説明しにくいのですが、簡単にいうと「現実の世界で想いを寄せる人と、映画の中で恋人関係になって地球最後の日を一緒に迎える」というお話だということを知っておいていただければそれで十分です。


主演の交代や制作費の枯渇など、あおいはさまざまな苦労の末にこの映画を撮ったのですが、撮るだけ撮って結局誰にも見せずにこの世を去ってしまったのです。生前は映画のことを聞かれても「うまく撮れていなかった」とか適当な理由をつけては見せることを断っていたようなのですが、実際にはちゃんと編集まで終えてひとつの作品としてまとめ終わっていたようなのです。
ではなぜこれを他人に見せようとしなかったのかというと、あおいが智也を好きだということが映像から伝わってくる作品だったからではないかと思うのです。それは自主制作映画のストーリーと配役がそうなっていからということ以上に、その映画の中で見せたあおいの表情やしぐさは智也に恋するひとりの女性の表情であり、周りから隠そうとしていたあおいの智也への気持ちが映画から透けて見えていたためにそれを公開することなんかできないと思ったのに違いないのです。


つまり、言葉以上に伝わるコミュニケーションとは映像を介して意識を共有することで図るコミュニケーションです。
繰り返しになりますが、言葉というのは自分自身の頭の中にあるイメージそのものではありません。頭の中にあるイメージを言葉に変換して発しているのです。経験上この「変換する」という過程がとても曲者でして意外に思ったことをうまく言葉に変換できないし、さらにその言葉を聞いた相手もその言葉をうまく頭の中のイメージに変換できなかったりするのです。それが互いの認識の齟齬を生んだりするのです。


本作は過去にタイムリープして自分の親の同世代となってその時代を過ごすという設定がすごくおもしろいと思うのですが、わたしはそれ以上に自分の気持ちを映像に込めることにものすごく心惹かれたのです。
30年以上前にタイムリープしたあかりが出会った涼太というひとのいい青年。彼の朴とつだけれどまっすぐな性格に惹かれていたあかりですが、元の時代に戻るということを涼太に告げられず、さらに記憶を消されたうえで別れることになるのです。記憶もいっさいのつながりも絶たれた中で、唯一残されたのは涼太が撮った一本の映画の入った8mmテープなのです。


当初、涼太が撮った映画は2011年に世界が滅びる話でした。
大きな地震がきたために世界は壊滅的な被害を受けてしまった近未来の世界。そこで外の世界から助けがくるのを心待ちにしている二人の男女がいたのだけれど、結局助けはこなくて二人とも死んでしまい、世界は終わりを迎えるという物語だったのです。
その結末で一度は映画を撮り終えた涼太でしたが、2009年からきたあかりの生きる明るい未来を思い、ラストシーンを撮り直します。これからも毎年割き続ける桜の咲く道をあかりが歩いていく映像を、ラストに差し替えたのです。



未来に戻り、涼太に関する記憶は何もなくなってしまったはずのあかりがこの映画を観て涙を流したのは、心に刻まれた涼太との思い出や彼への想いが映像によって活性化されたためなのです。わたしはこのシーンがものすごく大好きで、言葉ではない映像によるコミュニケーションというもののすばらしさ、そしてわたしがそのシチュエーションにどれだけ弱いのかということ思い知らされるのです。


「未来から来たのに、わたしが未来に帰ったら涼太にとっては過去の人になってしまうのが寂しい」とつぶやいたあかりの気持ちや、それに応えるかたちで自らの思いを映像に残して伝えようとした涼太の気持ち。
見終わって10日経った今でも、それについて考えるだけで胸がしめつけられるような気分になります。


公式サイトはこちら