象の背中


何不自由なく暮らす48歳の中堅不動産会社部長・藤山幸弘(役所広司)は、今まさに人生の“円熟期”を迎えていた。しかし、ある日突然、医師に肺がんで余命半年と宣告されてしまう。その時、彼が選択したのは延命治療ではなく、今まで出会った大切な人たちと直接会って自分なりの別れを告げることだった。これまでの人生を振り返り、「自分が生きた時間とはこういうものだった」としっかり見極めて死にたいと思ったのだった。それは妻・美和子(今井美樹)と、夫婦として再び向き合うことでもあった。23年間を共に過ごしてきた夫婦にとって、この最後の半年間は忘れ得ないかけがえのない時間となる――。作詞家・秋元康初による同名長編小説の映画化。

『象の背中』作品情報 | cinemacafe.net

宇都宮テアトルにて。
余命半年と告げられた一人の男性の物語。死を目前にした時に一体何を考え、何を望み、どう行動するのか。自分に置き換えて考えてみると非常に難しいというかそもそもそんなケースは考えたくないと思う物語でした。


この作品でとても印象的だったのが、始まってすぐのガン宣告を受けたところから会社のトイレでやり場のない気持ちに悶える一連のシーン。突如突きつけられた「遠くない未来に死ぬのだ」という事実に混乱し、それを素直に受け入れる事なんて当然出来ず悩み苦しむ姿があまりに真に迫り過ぎていて見ているだけで胸がつまされる思いでした。ストーリーについて何も知らないこの状態で思わず涙が出そうになるくらいぐっときました。気持ちが伝わってくるような役所広司さんの表情と言うか表現力は素晴らしかったです。


この作品を見るずっと前から、私は生きる事はマラソンや持久走に似ているのではないかと思っていました。続けていれば楽しい時もあるし辛い時もあるけど、とにかく前に進まないといけないというその一点において、非常に似ていると感じていたのです。けれども、今日この作品を見てその考えが必ずしも正しくないのだと分かりました。
例えば。
終わりのないマラソンを走らされるのは苦痛以外の何物でもありません。ゴールがあってそれを目標にできるからこそ、そこへ向けて一生懸命歩を進めようと思えるのです。だから、マラソンにおいては常に現在地とゴールの位置関係を見据えながら取るべき行動を決めるのが最善だと言えます。
対して生きる事は死というゴールを意識し過ぎてしまうとそもそも生きる事自体を放棄してしまうのだと気付きました。日常で常に死を意識して生きている人はそれほど居ないと思います。もちろん生きる事の結末として死があることは知っているのですが、それをあえて意識しない事で日々を何とか生きていられるのだと思うのです。


終わりを意識すべきかどうか。似ていると思っていたそれぞれにおいて、これだけ根本的な相違点があることに気付いたのは大きな収穫だったと思います。


それと、この作品で面白いと思ったのは幸弘を浮気をするような人物として描いていた点です。会社での信望も厚く、家族との仲も非常に良い幸弘を単なるいい人として描くのではなく、不倫をするような人物としたのは非常に興味深いです。もし不倫をしていなければ、きっともっと多くの人が素直に感動したりいい話だったという印象で終わったはずなのですが、あえてそのようなキャラクターとした意図が何かあるのではないかと思うのです。
# ま、正直よく分からないので今は蛇足な設定だったと思うことにします。


象は死ぬ時に群れから離れて一人で死ぬそうです。そういえば猫も死が近くなると飼い主に見られない場所に行くというこれと似たような習性があると聞いたことがあります。
大事な人に看取られて最期を迎えたいのか。それとも象や猫のようにひっそりと死を迎えたいのか。みなさんはどっちがいいですか?


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