「天の茶助」見たよ


天界――。白い霧が漂い、どこまでも続くような広間。そこでは数えきれぬほど多くの脚本家が白装束で巻紙に向かい、下界の人間たちの「シナリオ」を書いていた。人間たちは彼らが書くシナリオどおりに人生を生き、それぞれの運命を全うしているのである。茶番頭の茶助(松山ケンイチ)は脚本家たちに茶を配りながら、そんなシナリオの中で生きている人間たちの姿を興味深く眺めていた。中でも、口のきけない可憐で清純な女性・新城ユリ(大野いと)への関心には恋心にも似た感情があった。そのユリが車に跳ねられて、死ぬ運命に陥ってしまったことを知る茶助。ユリを救う道はただひとつ、シナリオに影響のない天界の住人・茶助が自ら下界に降り、彼女を事故から回避させるしかなかった…。

『天の茶助』作品情報 | cinemacafe.net

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ひさびさに大好きな大野いとが出るというので楽しみに観に行ってきましたが、かなり微妙な作品でした。

「天界ではあまたの脚本家たちが下界の人間の人生をシナリオとして書いていて、大半の人間はそのシナリオに沿って生きている」という設定はわりと突拍子もなくておもしろかったのですが、この設定がおもしろみの源泉になることなくほぼどうでもいいおまけのようなものになっていたのがほんとうにもったいないと感じました。

そもそも天界で多くの人の人生を観ていた茶助が、その立場を捨てて下界に行くことを決意した理由として「一人の女性を救いたいから」というのは説得力があるのかどうかというとなかったのかなと。もちろん彼女に惹かれていた部分があったからこその決断だというのはわかるのですが、たくさんの、それこそ数えきれないほどの人たちの人生を観てきたはずの彼が彼女に惹かれた理由がもうちょっとはっきりしてもよかったんじゃないかなと。

あとは「彼がじつはすごい力をもっていた」という設定や、「じつは元やくざだった」という設定に説得力もなく、さりとて必然性も感じられなくてなんだかなという脱力感だけが残りました。


と、ここまで作品としてのダメな部分を挙げたのですがではこの作品のことが嫌いなのかというとそうでもなくて嫌いになることができない作品でした。最初に書いたとおり設定そのものはおもしろいと思いますし、土着というかその土地その場所の匂いが伝わってくる画作り、映像はすごく魅力的です。もともと大野いとが観たくて観に行ったのですが、彼女以外のキャストもみな大好きな人ばかりだからそんな人たちが集まってあの世界を組み立てているのを観られただけでも十分楽しめました。


あとは印象に残るシーンもいくつかあって、たとえば茶助とユリが骨董品屋で二人きりになったときに茶助が自分の力を使ってユリを喜ばせようとするシーンはすごくよかったし、茶助が街中を疾走するシーンの躍動感あふれる映像はスリリングで観ていてハラハラ楽しく鑑賞できました。


ただ、繰り返しになりますが物語に余白があり過ぎてそこは妄想で埋めるしかなかった点はわたしには欠点としか思えなかったし、とくにユリに関する情報の足りなさは「物足りない」という表現だけでは済まない決定的な欠落だと感じました。彼女のセリフを極限まで抑えたわけですから、そこまでしゃべることができなかった理由をもうちょっとはっきり提示してほしかったなと思います。


@MOVIX宇都宮で鑑賞