父親を殺された14歳のマティ(ヘイリー・スタインフェルド)は、復讐を決意し、腕はいいが酔いどれの連邦保安官ルースター・コグバーン(ジェフ・ブリッジス)に依頼する。若きテキサス・レンジャーのラブーフ(マット・デイモン)も加わり、3人の執念の追跡劇がはじまる。そして、最後に待っていたのは―。 1969年公開の西部劇の名作『勇気ある追跡』をアカデミー賞監督・コーエン兄弟、製作総指揮スティーヴン・スピルバークでリメイク。
『トゥルー・グリット』作品情報 | cinemacafe.net
TOHOシネマズ宇都宮にて。
先週、TOHOシネマズ宇都宮が再開した直後に観に行って「ただの復讐劇っぽいんだけどなぜかすごく面白い」という、分かるような分からないような感想しか出てきませんでした。どこに惹かれたのかその理由を確認したくて、本日二度目を観てきました。
この物語を簡単にまとめると「父親を殺された少女がその犯人への復讐をしようとする」という本当にただそれだけのお話なのですが、これが驚くほど面白くて、始まったと思ったら終わってるというくらい*1強烈に作品の世界に惹きつけられてしまうのです。
今回は二度目ですので自分がどこに反応しているのかをなるべく客観的に眺めてみたのですが、何と冒頭で「何かを手にするには代償が必要だ。代償無しに手に入れられるのは神の慈悲だけ」という語りの部分でグッときてしまっていることに気付いてしまったのです。
始まって30秒くらいで引き込まれるのはいささか早過ぎる気もしますが、どうやら既に一度観ているので、この言葉に込められた意味を汲み取ってしまい反応してしまったようなのです。
そんなわけで一度目とは見方が少し違ってしまったようなのですが、二回目を観終わってもこの作品に対する好意的な印象というのは何ら変わらず、むしろより素晴らしい作品だと感じたし、より大好きだと実感できました。
本作を観て感じたのは、行為に対する責任については誰もがみな平等であるということ。
上でも紹介しましたが冒頭で「何かを手にするには代償が必要だ。代償無しに手に入れられるのは神の慈悲だけ」という言葉が観ている人に投げかけられるのですが、これはつまり「何かを得れば相応の何かを失う」ということを述べているのです。
もって生まれた能力や置かれている状況というのは人それぞれみな違っているし、その違いを不平等であると表現することも間違いではないと思いますが、一方で、行動に伴って生じる責任というのは誰に対しても等しく生じるものであり不平等ではありません。
例えるならば、物理学の基本的な法則として知られる「作用・反作用の法則」のような"相手を押してるときは自分も押されてる"的なものであり、この世の中の原理原則みたいなもんなんじゃないかなと。言い過ぎてるような気もするけど。
何かを得れば、何かを失う。
相手から何かを奪おうという悪意から人を殺すのも、最愛の人を奪った人を復讐のために殺すのもどちらも同じ殺人であって、その代償に差はないというのであれば、それはたしかに公平で平等だよなと。
では、復讐したことに対しても等しく殺人や傷害への代償を払わなければならないというのであれば、この作品で描いているような復讐というものはすべきではないのか?という疑問がわいてきますが、本作では決してそういった主張はなされていないとわたしは感じました。
復讐はしてもいいとか悪いという軸で考えるのではなく、「何かを得れば、何かを失う」ということを覚悟してやるべきかどうか決めろということなんじゃないかなと。覚悟というべきか自覚というべきか悩むところではありますが、そういった自覚なしにことに及んだその結末の怖さはこの作品が十分すぎるくらい教えてくれます。
さすがにもう一度観ることはないと思いますが、本当にすばらしい作品でした。
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