近未来のロサンゼルス。長年一緒に暮らした妻・キャサリン(ルーニー・マーラ)と別れたセオドア(ホアキン・フェニックス)は、人工知能搭載OSの“サマンサ”(スカーレット・ヨハンソン)に恋してしまう。そうはいっても、“彼女”は実体などなく、コンピューターや携帯画面の奥から発せられる、ただ声だけの存在。けれど、“彼女”は驚くほど個性的で、繊細で、クレバー。それでいてセクシーだった。次第にセオドアは、“彼女”と一緒に過ごす時間だけを幸せに感じるようになり、“彼女“に魅了されていく――。
『her/世界でひとつの彼女』作品情報 | cinemacafe.net
改めて自分の身の周りにあるものを冷静に見てみると、自分が子どものころには想像もできなかったようなすごいものを何の感慨もなくふつうに使っていることに驚くことがあります。
たとえばスマートフォンやタブレットなんかがとてもよい例ですが、すごく小さいのに遠く離れた他人とリアルタイムでコミュニケーションを取れたりゲームができたり本が読めたりお金を支払えたりするこんなすごいデバイスを、世の中の多くの人がもっていてそれを当たり前のように使っているのってすごい光景だなと思います。
昨日と今日、今日と明日といった連続した日々の中で徐々に変化は起きているのでなかなかそのすごさに目がいかないのですが、自分が幼かったころの生活といまの生活を見比べてみればたくさんのことが便利になっていることに気付くのです。
さて。
上でも書いたとおり「世の中はどんどん便利になっている」と感じているし、おそらくこれからもっと便利になっていくことは間違いないと断言できるのですが、ふと「便利になるというのはいったいどうなることなのか?」という疑問がわいてきました。で、ちょっと考えてみたのですが便利になるということは「いままでやっていたことが合理化されて手間が簡略化されること」だろうと思います。
例として挙げるとすればまずは電子マネー。
以前は商品やサービスの代金を支払うためには硬貨や紙幣をやり取りして対価を支払っていたのですが、電子マネーはその紙幣や硬貨のやり取りを抽象化して「お互いがもっている資産データを移動させることで対価のやり取りをしたとみなす」ことで、より簡易的に対価の支払いができるようになりました。
小銭や紙幣を持ち歩かなくてもいいしやり取りは一瞬で終わるし間違いもないしととても合理的です。
あとは電子書籍。
いままでは本屋に行って買う、読み終わったら本棚に片づけるといった作業が必要だった書籍を電子データとして扱うことで、欲しい本は一瞬でダウンロードして読み終えたら片づける必要もないということで電子化することでとても便利になっています。
こんなふうに、いままでは紙幣や硬貨、紙といった物理的な実体をもっていたものを電子データに置き換えて交換や流通しやすくするというのがもっともわかりやす便利になる例だと思うのですが、利便性という点においては多くの人が同意してくれるものの、どうしてもなじめない人はとことんなじめなかったりします。
わたしは電子マネーはぜんぜんウェルカムなのですが、本に限っては紙の媒体がいいなと思うし手に触れられるモノがないと物足りないなとも思ってしまいます。
話がややずれてしまいましたが、本作はそんなふうにどんどん便利になっていった未来を描いた作品でしたが予告を観て期待していた以上にすごくおもしろかったですし、「自分はどこまで合理化された世界を受け入れられるのか?」ということについて考えながら鑑賞してきました。
本作の主人公セオドアは、人工知能OSを購入して日々をともに過ごしているうちにそのOSが作りだした人格に恋をしてしまいます。
「人工知能に恋?」と思ってしまいそうになりますが、ネットでは「インターネットを介してのみつながっている会ったことも話したこともない相手を好きになる」という事例が見つかりますし、「意思をもった発言をする存在」という切り口でみれば人工知能もネットでのみつながっている相手も変わらないのですからそう考えるとさほどおかしなことではないとも思えるはずなのです。
ところが、いざ相手が肉体をもたないコンピューター上のプログラムだとなるとなかなかそれでいいとはわたしは割り切れません。
絶対に会えないしふれあえない相手との関係をどこまで続けられるのかということについて本気で考えてしまいました。
もちろん心がつながっていれば大丈夫とていう人もいるのかも知れませんが、でも自分は心のつながりを保つためには体のつながりもなくちゃダメだと思うし、たとえばこの作品で描かれていたような"体だけ別の人のものを借りる"なんてのはもってのほかだなとも思いました。
さらに先の世界、たとえばもっと高度な技術を手に入れて発達した世界では、たとえば脳に刺激を与えることで肉体的な接触をしたと錯覚させるような技術によって性行為ですら仮想的に体験できるようになるのかもしれませんし、そうなったらもはや相手が実在する人物なのかそれとも仮想的な存在なのかを判断することすらできなくなるのかも知れません。
そうなったら自分の思い描く理想の相手とあんなことやこんなことが好き勝手にできるわけですからそれこそ便利の極致みたいなものなのですが、わたしはそういう世界は嫌だなと思うし、この作品を観たことで自分が許容できる合理化の上限がどのあたりにあるのかということがわかったような気がしました。
@MOVIX宇都宮で鑑賞
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