「きのうの神様」読んだよ

([に]1-2)きのうの神さま (ポプラ文庫 日本文学)

([に]1-2)きのうの神さま (ポプラ文庫 日本文学)

村からただ一人、町の塾へ通っているりつ子は、乗っていた路線バスの運転手・一之瀬から突然名前を呼ばれ戸惑う。りつ子は一之瀬のある事実を知っていた(「1983年のほたる」)。人の闇の深さや業を独自の筆致で丹念に描き出し、直木賞候補になった傑作が待望の文庫化。

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観に行く映画を選ぶときに、キャストやストーリー(主に予告)で選ぶことがわりと多いのですが監督で選ぶことはあまりありません。
もちろん監督を軽視しているわけではありませんが、顔を見ているわけではないためかなんとなく監督の名前っておぼえにくい気がするのです。とくに海外の映画はその傾向がつよいのですが、邦画も例にもれずあまり監督の名前は存じ上げません。


このように無知な上にたいへん記憶力が薄弱で忘れっぽいわたしですが、そんなわたしにも大好きな監督さんというのが何名かおりまして、その方が撮った作品であれば作品の内容をなにも知らなくても公開日に駆けつけようと思うくらいのお気に入りです*1


本書はその数少ないお気に入りの監督、西川美和さんの著書です。
西川さんの作品は「ゆれる」「ディア・ドクター」「夢売るふたり」と観てきましたが、いずれの作品も他者のプライベートな部分をのぞきこんでいるような気持ちになる作品で、観ている最中も観終えてからも胸がざわざわして抑えることができませんでした。



本書は題材がバラバラな5編の短編集ですが、いずれの作品も素性の異なるさまざまな登場人物の機微をていねいに描いたすばらしい作品でした。ひとびとの心の遷移や物事が変化してくステップにはいっさいの飛躍がなく、緻密に言葉が積み重ねられているのがとても印象的でした。

これは自分で文章を書いてみるとそのすごさがわかるのですが、なにかを文章で表現しようとした時に文章には書き手がもっている情報がすべて入るわけではなくかならず不足が生じます。それは自分にとっては常識的過ぎてあえて書くまでのことではないと思っている部分、もしくは読み手と共有できているという前提を想定してしまった部分が明示的に文章として書かれず抜け落ちてしまうからだと思っています。

わたし自身、自分の書いた文章を翌日読むとものすごい情報不足を感じることがあります。
その理由は、おそらく書いていたときは書いている対象についていろいろ考えながら書いているので対象に関する情報を補完できるのですが、書き終えて一日経つともうその対象のことはすっかりと頭の中から抜け落ちてしまうために補完できずに情報不足と感じるのではないかと思います。


ところが本書にはそういった不足がまったくなく、すべてのやり取りが違和感なく、そして進行が地続きで進んでいてそのことにただただ感心してしまいました。


西川監督の映画は大好きでしたが、この本を読んで文章も同じくらい大好きになりました。

*1:お気に入りの監督であれば、その人が撮った作品の内容くらいは公開前にチェックするだろう....なんていうツッコみは無しでお願いします