「さや侍」見たよ


ある事情で刀を捨てた侍の勘十郎。戦うことを拒む彼を軽蔑する娘のたえ。2人は当てのない旅を続けるが、脱藩の罪を問われて勘十郎は捕らえられてしまう。捕まった先の殿様は相当な変わり者で、勘十郎は成功すれば無罪放免となる“三十日の業”に処されるのだが…。

『さや侍』作品情報 | cinemacafe.net

(注意)
本エントリーは作品の結末にふれている部分がありますので未見の方はご注意ください。
できればご覧になってから読んでいただけるとうれしいです。


TOHOシネマズ宇都宮にて。


冒頭、コントなのか映画なのか図りかねる相変わらずの展開に3度目の正直を期待して観に来たことを後悔しそうになりましたが、観終えてみれば過去2作に比べるとずいぶんと映画らしさが感じられる作品になっていてとてもおもしろかったです。ネットでは賛否が分かれているようですが、個人的にはよかったなと感じました。


わたしは本作について意見が分かれるポイントは3つあると思っています。


まずひとつめのポイントは作品の構成に関する部分です。
この作品はおおよそコント的な要素が多分に含まれていて、"三十日の業"というのはいわゆるコントをするための理由づけでしかありません。それ自体が許せないという方も多くいるようで、「こんなの映画じゃねー」という意見は多く見かけました。
たしかに「大日本人」のラスト30分のようなコントそのままであればわたしも嫌だなと思うのですが、実際今作におけるコント要素というのはとてもナチュラルに映画の中に組み込まれていてまったく違和感がありませんでした。もちろん、やっていることそのものに対する違和感というのはどうしても残ってしまう場合がありますが、構成としてはまったく問題ないと思いました。


そしてふたつめのポイントは、勘十郎が選び取った結末に対する部分です。
勘十郎はそこまでの頑張りを認められて、辞世の句を述べることで生き延びることができるところまでたどりつきます。何でもいい。とにかく何か言葉を発すればそこで無罪放免、許されるというところまできたのに、彼は短刀で切腹をし、そしてその短刀を刀のないさやへと戻してその生を終えるのです。
他人を傷つけるような戦いを拒否し、腰にはさやだけゆわえて生きてきた勘十郎が、最後の最後に短刀とは言え、さやに刀を戻すことが本来的に正しいことなのかどうかというとわたしもたしかに疑問だなと思います。たえが「刀も持たないのは武士ではない」と勘十郎を罵って自決を迫るシーンがあるのですが、そういった価値観って本当に正しいの?という問題提起をこめて、さやしかもたない侍というキャラクターがいきてくるんじゃないかなと感じていたのですが、最後の最後で結局普通の侍がいいのかとがっかりした気分になりました。


でも、たえが望むようなすばらしい武士として最期を迎えようというのであればそれは分かりますし、何となくそうであって欲しいというのがいまの気分です。


そして最後。もうひとつのポイントは、勘十郎の残した遺言が手紙として残されていてそれを渡されていた僧侶が読み上げるシーンがあるのですが、ここで手紙の朗読がいつしか歌になってしまうという部分があります。「この歌詞に感動した!」という方もいれば、「何でここで歌うんだ!」と怒っていた方もいて賛否両論状態なのですが、わたしはここがいろいろと深読み出来ておもしろいなあと思ったのです。
ここで朗読ではなく歌わせたことの意味についてはずっと考えているのですが、「単純にそうするのがおもしろそうだった」というだけかも知れませんし「現代と過去とのつながり」を表したのかも知れません。
本当のところは何ともいいがたいのですが、個人的にはここまで意外に真面目にやり過ぎたことに対する松ちゃんなりの照れ隠しじゃないかなと思ったりしています。


とまあ、賛否ポイントはいくつかありますが、わたしがどう感じたのかはともかく、ユニークでおもしろいなーと感じたことは間違いのない事実です。
油断ならないいい作品でした。

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