「アレクサンドリア」見たよ


4世紀のエジプト、アレクサンドリア。栄華を極めたこの都市も、ローマ帝国の崩壊が間近に迫り、混乱を迎えつつあった。その中で、類まれなる美貌と明晰な頭脳を持った女性天文学者・ヒュパティア(レイチェル・ワイズ)は、学問に情熱を注ぎ、弟子に講義を行っていた。生徒でもあり、後に彼女の長官となるオレステスオスカー・アイザック)、奴隷ダオス(マックス・ミンゲラ)は密かにヒュパティアに想いを寄せる。やがて科学を否定するキリスト教徒たちと、それに屈しない学者たちの間で激しい対立が勃発。そして攻撃の矛先は、彼女に向けられていった――。

『アレクサンドリア』作品情報 | cinemacafe.net

MOVIX宇都宮にて。


昔、ダウトの感想でも書きましたが、わたしは宗教が大嫌いです。
個人が信仰を持つことには否定的な感情はもちませんし、それ自体を否定するつもりは毛頭ありませんが、わたし自身がそこに関わるのは嫌だしその信仰や考えを押し付けられたり広めようとする行為を見るのも苦手です。
嫌いの理由は前のエントリーでも書きましたが、盲目的に何かを信じることに対する不信感というものが根底にあります。
どんなにおかしいと思ったり疑問に思ったりしても「○○がそういったから」とか「××にそう書いてあるから」という言葉だけで片づけられることがとにかく嫌だし、おかしいと思ったら「え?それって本当なの?」と自然に言えるくらいじゃないと息苦しくてとても耐えられません。


それでもその人にとっての「信じるもの」が他者の思想と関わりあうことなく独立して成り立つのであればまだましな方でして、教義や信仰者の意識に原理主義的含みをもってしまった場合には他者のそれと対立することになってしまうのです。
「信仰の自由」があったところでこのありさまですから、それだったら最初からそんなのはなければいいんじゃないか?と本気で考えてしまうほどです。そうなったらそうなったでみんなに同じ何かを押し付けられることになるだけで何にも変わらないんですけどね...。


本作で描かれるのは、信仰というものが生活に密着している地域、時代に生きた一人の女性が、人々の信仰心の狭間で苦しみ、その犠牲になってしまうというお話なのですが、正直観ていてつらいと感じるところが多かったです...。
100年単位の時間をかけて積み重ねてきた知の結晶を無知で夷蛮な人間に踏みにじられてしまうシーンや、ラストシーンのヒュパティアに対する非道な行為は正視に耐えないほど厳しいものでした。特に、天体観測をとおして宇宙の仕組みを解き明かすことに興味を持つ知性あふれる女性を、信仰心をもたないだけで魔女と罵り、さらには私刑を加えようというその愚かさには怒りを通り越して絶望すら覚えます。


ただ、わたしが人々の行為を愚かだと断ずるのも今この時代だから出来ることなんですよね。
当時はそれが当たり前だと多くの人たちは思っていたわけで、結局は時代の違いでしかないと言われたら返す言葉もないわけです。いま自分が正しいと思って声高に主張していることも、100年、200年、もっと先の時代から見たら愚かな行為だと切り捨てられるようなものかも知れませんが、それは今この時代を生きるわたしが判断できることではないんです。
じゃあ自分はどう生きればよいのか?という部分については、先日観たばかりの「エクスペリメント」も似たようなテーマでしたのでもう少し考えて改めてまとめたいと思います。


あとヒュパティアに対してダオスが抱いていた感情の複雑さは最後までつかみきれなかったのですが、ラストシーンでやっと腑に落ちたような気がしました。上でも書いたとおりラストはとても悲しいシーンでしたが、観ていて何度も違和感をおぼえたのですがそれが作品に埋め込まれていた歪さが原因であり、その歪さの元となっているのが奴隷制度にあるということ、そしてその制度が撃ちこんだ楔の大きさを実感させられました。


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