ミストのラストシーン

ミストを観て5日ほど経ちますが、あのラスト15分が非常に不愉快で頭から離れず毎日寝る前に思い出しては、なぜこんなにも不愉快なのか考えていました。
何となく考えがまとまってきたので書いておこうと思います。
本気でネタばれなので、すでに観た人以外は読まないことをお奨めします。



まずは簡単にラスト15分のあらすじをまとめます。


スーパーから逃げた5人は、とりあえず逃げられるところまで逃げようと車を走らせるのですが、しばらく走ったところで車はガス欠になって止まってしまいます。止まった場所もまた霧の中。つまり車で逃げられるだけ逃げたにも関わらず、結局は霧の中から逃れられなかったのです。
道中、さまざまな異形の怪物たちが歩き回っているのを見ていた5人は、そう遠くない未来にこの怪物たちに襲われて最後を迎えるだろうと考え、デヴィッドの持っていた拳銃で自殺することにするのです。ですが、拳銃に入っていた銃弾は4発のみ。車にいるのは5人。つまり、ひとりはこの拳銃で死ぬことが出来ないのです。
デヴィッドは自分は他の方法を探すと申し出て、他の4人に銃口を向けます。そしてデヴィッドは自分以外の4人を銃殺します。


ひとりきりになったデヴィッドは異音のする車外へと出て、怪物に殺される覚悟を決めるのですが、そこに現れたのは軍の戦車だったのです。徐々に霧が晴れていき、そこに見えたのは森林を焼き払い怪物たちを駆逐している軍の姿であり、また、トラックに載せられて運ばれていく人々の姿でした。そのトラックに載せられていた人々の中にはスーパーに残してきた人たちの顔もあったのです。
結局、勇気を持って逃げた人たちは救われず、逃げないと言う臆病な選択を人たちが救われたのです。そしてその残酷な事実に打ちのめされ、嗚咽するデヴィッドからフェードアウトする形でエンドロールとなるのです。


文字に起こして改めて感じるのですが、本当に不愉快な終わり方です。


私がこのラストを見て不愉快だと感じた理由は大きく3つです。

1. 信ずるものは救われるのか?

この作品の中盤から後半にかけて、多数の人々がカーモディの呼びかけに呼応する形で暴徒の集団が形成されます。カーモディは特定の宗教を狂信していて、何かハプニングがあるごとに人々が感じる不安を煽動し、集団を狂気へと駆り立てていきます*1
カーモディに煽動された人々があまりに暴走してしまったために、デヴィッドたちは逃げ出したのですが、結果としてその逃げ出したデヴィッドたちのほとんどは死に絶え、残った人々は救われてしまうのです。つまりカーモディを信じるのが正しかったと言わんばかりの結末なのです*2


このラストシーンを見ていると、日常生活を送っている私から見たら確実に常軌を逸している集団が、その信仰心を貫いたおかげで生き残ることが出来たとも受け取れます。客観的に見ればそんなのは偶然でしかないわけですが、助かった人々にしてみれば「自分は信仰心を失わなかったから助かった」とも言えるわけです。信じたから助かったのだと。


率直に言えばこれが一番不愉快なのです。
信仰心を失わなかったから助かったなんてのは、生き残ったからこそ思える戯言でしかなくて、信じながらも死んでいった人は山のようにいるはずなのです。だから生き延びたことと信仰心を持っていたかどうかというのは相関などないはずなのです。そんなのがある根拠などありません*3


そのような信じるものは救われると言わんばかりの部分が許せないとかんじたのです。

2.自らの手でビリーを殺めたことに対して感じる不快感

最後に逃げた5人の中にはデヴィッドの息子であるビリーがいます。
結末は上に書いたとおりですので、結果としてはデヴィッドは自らの手でビリーを銃殺したことになります。


話は戻って逃げる前日に、ビリーは父親であるデヴィッドに対して「ぼくを怪物に殺させないで」と懇願しています。
最初にこの言葉を聞いたときには「何があっても守って」という言葉と同義だと受け止めていましたが、このラストを見た時にデヴィッドは決してそれだけの意味では受け止めていなかったということが分かったのです。つまり怪物に殺されるくらいならば、自分の手で最後を迎えさせようと思っていたようなのです。もしそうでなければ、最後まで諦めずにビリーだけでも生かそうとしたはずですし、私がデヴィッドであれば絶対にそうしたと思います。ここまで逃げる努力をしてきたわけですから、もう少し待って欲しかったと感じてしまうのです。


もちろん、私が結末を知っているからそう思うのだというのは分かりますが、それでもこのような子が親に殺されるというシーンは非常に不愉快でした。さらに、このデヴィッド苦渋の決断は無駄であり間違っていたことがわずか数分後には思い知らされるのですから、精神衛生上いいわけはありませんし、たまったものではありません。


本当にやりきれない気分になります。

3. 生き延びたかったんじゃないのか?

で、まとめになるのですが、結局そこまで逃げておいて最後に自決を選んだ事がまったく理解出来ませんでした。
今まで死んでいった人たちのように、怪物から逃げ惑って惨めに終わりを迎えるのは嫌だということなのかも知れませんが、なぜそこで諦めたのか非常に不満を感じていました。
あれだけ死線をくぐりぬけてここまで来たのに、いくら襲われて死ぬのが怖いと言ってあっさりと死を選ぶその心境の変化が分からなかったし許せなかったのです。

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こうやって毎日毎日考えていたら気付いたことがあります。それはあの場(車の中)で死を選ぶというのもまた、この作品全体をとおして描かれていた「霧の中に閉じ込められている恐怖/閉塞感によって呼び起こされる人間の異常性」の表れなのではないかと思うのです。
日常生活を過ごす私から見たら上記のように不満/疑問を感じることばかりなのですが、このような非日常的な異常な環境ではきっと正常な判断など望む事は出来ないのだろうと感じるのです。


あと数分待てばよかったというのも、非日常的な状況におかれたデヴィッドたちには思いつかないことなのかも知れません。


私はこの作品を見ているときは、デヴィッドの視点で状況判断を考えていました。
こんなところからは車で逃げるべきだというのはそのとおりだと思いましたし、いつまでもスーパーに残る事がよいことだとは思えませんでした。すぐにでも逃げるべきだと思いながら最初から最後まで見ていました。
それが間違っていた(少なくとも生き延びる事が出来たかどうかで判断すれば)と分かった時の脱力/無力感というのは想像を絶していました。どのような窮地であっても、そのときそのときをどのように対処することが最善なのかを冷静に判断することの難しさを体験出来る作品でした。


不愉快な作品だったけど、他の作品では味わえない気分を堪能できた点にはとても満足しています。

*1:話は全然違う方向にそれてしまいますが、私は宗教を妄信している人がひどく苦手で、そういう人たちの口から出る宗教的な言葉(例えば信仰心なんて言葉はその最たるものですが)を聞くととても不愉快になります。だからカーモディが旧約聖書の一部を読み上げて人々に語りかけるシーンは何より嫌でしょうがありませんでした。

*2:もちろんそんな事を意図していたとは思いませんが、そのように受け取ってしまいそうになるくらい強烈な終わり方なんだよなあ

*3:相関が無いという根拠もありませんが