「ダウト −あるカトリック学校で−」見たよ


1964年、ニューヨーク・ブロンクスに佇むカトリック教会学校の校長、シスター・アロイシス(メリル・ストリープ)はある小さな“疑惑”を抱いていた。それは純真な新米教師、シスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)の目撃談から始まった…。ある“疑惑”とは、生徒から人気のあるフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)が唯一の黒人生徒と“不適切な関係”をもっているのではないか…ということであった。だが、シスター・ジェイムズはフリン神父を信じ、次第にシスター・アロイシスに違和感を覚える。果たして、全てはシスター・アロイシスの妄想なのか、それとも“疑惑”は真実なのか――? 監督は、『月の輝く夜に』('87)でアカデミー賞脚本賞を受賞したジョン・パトリック・シャンレィ。

『ダウト ~あるカトリック学校で~』作品情報 | cinemacafe.net

山形フォーラムにて。
「信頼」の反意語は「疑惑」だったと思いますが、そうだとすると「疑う」という言葉の反意語は「信じる」になります。
つまり、信用していないこと、それが疑うという行為につながると言えそうです*1


信じられないから疑うのか、それとも疑わしいから信じられないのかというのはケースバイケースでしょうが、わたしは疑いをもつことが出来る程度に距離感のある信頼関係が一番よいと思っています。こんなことを書くと「友達を疑うなんて...」と白い目で見られそうな気もしますが、わたしは何かを妄信することだけはどうしても受け付けない性格でして、何かに対して疑いをもたずに信じきるということには強烈に反発してしまうのです。


わたしがこのような性格になったのは、幼少時に宗教に傾倒する人を多く見たことが影響しています。
わたしの家族はわたしが生まれた当時からある宗教を信仰していました。当然わたしもその信仰者のひとりとして育てられましたし、近所にも信仰を同じくする人たちが多くいましたのでその状態を特に異常とも思っていませんでした。しばらくは非常によい状態が続いていたようなのですが、その後ちょっとした信仰の対象の違いをきっかけに信者同士の対立みたいなものが始まり、最後には顔を合わせるだけで罵り合う始末。冷静に見ればどっちも同じようなものなのに、ただ信じているものが違うというだけでここまで他人を許せなくなるものかとゾッとしたのです。


宗教というのが何のためにあるのかわたしには分かりませんが、人間とは比べられないほど大きな存在を信じるという行為は生きていくうえでとても大きな支えになることをわたしはよく理解しているつもりです。
わたしは信仰があるということは人生を貫くひとつの柱があるようなものだと思っており、これはその人の強さに直結すると考えています。また、宗教というのはそれをとおしてコミュニティを形成しますので、その集団に対する帰属意識も生まれます。「寄らば大樹の陰」というのは言いすぎですが、自分自身が寄り立てる集団があるというのは大きな支えになります。


そういった自身の生活を支えるものとしての信仰をもつことは非常に有用だと思いますが、それも度が過ぎると信じることそのものが目的に変わってしまいます。妄信する人たちのもつ「信じるもののためには他人を傷つけることもいとわない傲慢さ」が許せないんだよなあ...。


話を映画に戻しますが、この作品のメリル・ストリープの放つ迫力、それは強固な信仰心をもつひとりの人間としての迫力なのですが、これがものすごく強烈でした。このインパクトには参ったとしか言えません...。
最近、繰り返し鑑賞していた「マンマ・ミーア!」での彼女の印象が抜け切れないままこの作品を鑑賞したのですが、もう別人28号としか思えないほどのキャラクターの変わりっぷりには感心を超えて感動してしまいました。今作での"ストイック過ぎるほどひとつの仕事に人生をかける"というキャラクターは「プラダを着た悪魔」のミランダを彷彿とさせられますが、とにかく彼女が演じるシスターという役からは強烈なインパクトを受けました。
そしてこの役作りがすばらしかったために「自らが正しいと思うことを貫くことは大事だけれど本当にそれでよかったの?」という彼女が取り続けた行為の是非を問うラストにはしばらく固まってしまいました。


ものすごくズシンと心にのしかかってくるすばらしい映画でした。


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*1:信じるからこそ疑うというような言説もありますが、それも考えるとめんどくさいのでここでは言葉の単純な定義の比較にとどめておきます