書きたい事を書ける幸せ

 これが消すに至るまでに僕が考えていた経緯の半分くらい。残り半分は、昨日少しだけ書いたけれど、「言語的布置」の問題。何を書いたとしても、リアクションが大きすぎてちょっと困ってたのだった。ポジにもネガにも。勿論それは多くの人に読んでもらえることの証明なのだろうから、基本的にはいいことなんだろうけれど、何度も書いたけれど僕は自分の文章で人と議論したりとか、何か善悪を主張したいなんて全然思っていない。正しいこととか、もっともなことなんてくそっくらえで、身軽に文章を書きたいだけだったのが、いつのまにか巨大な亀みたいになってしまった。そこで、また「読者3名」くらいの状態から、やりなおしたいなあと思った。これが残り半分の理由。

http://d.hatena.ne.jp/idiotape/20071108/1194495448

書いたものが他人の目に触れる以上、さまざまな反応が生まれることは避けられません。嬉しくなるようなポジティブな反応もあれば、目を背けたくなるネガティブな反応も生まれるのが自然ですし、それに耐えられなければ書かないと
ただ、感覚的にですがアクセス数の増加に比例してネガティブな反応が目に付くような気がします。そしてネガティブな反応は連鎖します。一つそのような反応が生まれれば、それに呼応して2つ、そしてその2つに反応してさらに4つとどんどん生まれてきます。
誰かがネガティブな反応をしたことで、反応のネタが増え、そして似たような反応のしやすい空気が醸成されていくのです。


例えば。はてなにははてなブックマークというサービスがありますが、これがそんな空気を生みやすいのです。該当のウェブページにタグを付けておけるSBMなのですが、コメントも付けることが出来るので積極的にそして一方的に相手へメッセージを突きつけることが出来ます。そしてそのコメントは誰からでも見ることが出来るので、上で書いたような空気が作られていくのです。


もう一つ。悪意を向けられた人はその受けた悪意をもっと弱い人へ矛先を向けているような気がします。以前ズーニーさんが書いていた悪意は連鎖するという話を思い出しました。

メールでは、ほんの小さな批判でも、
予想以上に、身体にこたえる。

文章の教育をやってきた私は、
書き手の根本思想を
よくもわるくも、敏感に受け取ってしまう。

そのときのそれははっきり悪意だった。
私は、生まれてはじめてはっきりと
人の悪意を浴びたような気がした。

(中略)

私は、自分の腹の中で、
受け止められず、消化しきれなかった悪意を、
母にあたる、という最悪のカタチで発散してしまった。

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

つまり他所や現実で受けた悪意の向け所を発散しやすいネット上へ向けているのではないかと思うのです。それは、川の水が高いところから低いところへ流れるように、悪意は強いものから弱いものへその矛先を変えて移動を繰り返しているような気がするのです。
自分が傷付かずに相手を攻撃する方法には事欠かないネットでは、アクセス数の多いところは目に付きやすくその悪意の餌食になる人が多いように感じます。


幸いにもここのブログは一日50〜100アクセス程度なのでそれほど悪意を向けられる心配もなく、正に上で引用したサイトにあるような読者3名くらいの状態で毎日楽しく書くことが出来ています。この状態が長く続きますように。