「だれかのいとしいひと」読んだよ

だれかのいとしいひと (文春文庫)

だれかのいとしいひと (文春文庫)

転校生じゃないからという理由でふられた女子高生、元カレのアパートに忍び込むフリーライター、親友の恋人とひそかにつきあう病癖のある女の子、誕生日休暇を一人ハワイで過ごすハメになったOL…。どこか不安定で仕事にも恋に対しても不器用な主人公たち。ちょっぴり不幸な男女の恋愛を描いた短篇小説集。

http://www.amazon.co.jp/dp/4167672022

とりわけ記憶力に自信があったというわけではありませんが、20代くらいまでは自分の記憶が正しくないなんてことは考えたこともありませんでした。自分が体験したり見聞きしたすべてのことは、それが絶対の事実だと思っていたしそして客観的な真実であるとすら思っていました。

わたしにとって自分が自分であるということは、変わることのない記憶が昨日の自分と今日の自分をつないで連続性を保証してくれることによって支えられているとずっと信じていたのです。


ところが記憶にはたしかにそういった面もあるのですが、一方では「記憶は過去に体験した出来事を主観で切り取った思い込み」であり、さらに「記憶は生モノであって日に日にその姿を変えていく」ということもじょじょにわかってきました。

もうちょっと具体的に書くと、生まれてからいままでに体験してきた記憶の集合が自分という個を作っているのだとわたしは思っているのですが、実はその記憶は無意識のうちに改ざんされたり消去されたりしているというふうに感じられるようになったのです。
そんなあいまいで頼りない記憶というものが、いまの自分という人間を構成する骨子であることがとてもおもしろく感じられて、一層記憶というものへの興味を駆り立てるようになりました。


話がかなりそれてしまいましたが、本書は上記の紹介文では「恋愛を描いた短編集」として紹介されていますが、読んでみて感じたのは記憶の不思議さを柔らかな言葉で表現した作品集だと感じました。ふとした瞬間、ある何かをトリガーに想起される記憶がもたらす得も言われぬふしぎな感覚がこの作品ではうまく表現されていてとても感心しました。

毎日、毎日、昨日やそれ以前の過去を思い出しながら生きているわけではありませんし、そもそも記憶自体が不確かなものでもあるのですが、そんな記憶が人が人として生きていくことを支えているんだなということを思いだしました。


ちなみに、本書を手に取った理由は表紙が酒井駒子さんのものだからでして「酒井駒子さんが表紙絵の作品は傑作」というわたしのジンクスはまたもや破られることなく、その実績をひとつ積み重ねたのでした。


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