「エクスペリメント」見たよ


ある実験のために新聞広告で集められたさまざまな職業の一般人。凶悪な殺人犯でもサイコな変質者でもない。彼らは、無作為に「看守役」と「囚人役」に分けられ、監視カメラ付きの模擬刑務所に収容された。2週間、いくつかのルールに従いながら自分の役を演じること、それが彼らに与えられた仕事だった。徐々に本物の看守よりも看守らしくなる看守役、そして本物の囚人以上に囚人らしくなる囚人役。そして、それぞれが信じられない狂気の世界に足を踏み入れていく…。心理学会に論争を巻き起こし、今も訴訟問題に揺れる心理実験を完全映画化!

『エクスペリメント』作品情報 | cinemacafe.net

宇都宮ヒカリ座にて。


本作は「スタンフォード監獄実験」という名前で有名になった心理実験を映画化した作品ですが、40年近く経ったいまも語り継がれる恐ろしい実験であることをつよく感じさせるすばらしい映像化作品でした。"おかれた立場によって変わることのない善悪の判断基準"をもつことの難しさを痛感させられました。
ちょうど先日読み終えた「海と毒薬」では日本人の善悪の判断基準について問題提起がされていましたが、この作品からはそういった問題は決して日本人だけに限った話ではないという主張のようにも感じました。


上記の説明のところにも簡単に書いていますが、「スタンフォード監獄実験」というのは"普通の人が肩書きや地位を与えられることでその役割に合わせて行動してしまうこと"を説明しようとした実験です。この実験が期待・予想以上の結果を出してしまうことで、前述の主張が人間の本能として備わった性質のひとつであることが判明するという、言うなればただそれだけのことなのですが、何が怖いかってその主張の内容自体はものすごくありふれたものであることなんですよね。
つまり、当たり前の主張と当たり前の結果であるにも関わらず、その結果があまりに過激であるためにギャップの大きさに驚いてしまうわけです。


では、なぜここまで過激な結果が出てしまったのか?


その理由としては2つのポイントがあったと感じています。

1. 善悪の判断基準を個人の内面から完全に取り除いた

日常的に我々が何かを判断するときには自身の内面にある基準をベースに、その良し悪しを判断します。
その基準がどういったものから作り上げられるのかはさておいても、自身で善悪を判断するというのは至極当然のことであるとわたしは思うのですが、この作品ではその当然のことを一気に取り除く術を用意していました。それは、看守の行為が正しいのかどうかはランプの点灯の有無で判断するとしたことです。
こうすることで善悪の判断は自身の内面の問題では無くなって外部にアウトソーシングされることになり、結果としてさまざまな残酷な行為を行う際に自分に対する言い訳として働くことになったのです。


とは言え、これは2.とも被る内容になるのですが、すべてをアウトソーシングするかどうかはやはり個人の考えに依存することでもありますので、被験者には影響を受けそうな人をあえて加えていたような気もします。

2. 力をもったことのない人間に力をもたせた

今回、この実験で看守役を務めたのは6,7名だったと記憶していますが、その中でもっともその権力を濫用したのはバリスという一番大人しかった人間でした。普段は親から浴びせられる文句にも口答えせずにいるくらい大人しい人間なのですが、そういう彼だからこそ、一旦権力をもたせてしまうと歯止めが利かなくなってしまったように感じました。



これは「信じるものをもたないものの末路」なのか、それとも「人間なんてまだまだこんなもんだよ」ということなのか。
本作の主張としてはたぶん後者なんでしょうが、なかなかおもしろい作品でした。


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