「海と毒薬」読んだよ

海と毒薬 (新潮文庫)

海と毒薬 (新潮文庫)

腕は確かだが、無愛想で一風変わった中年の町医者、勝呂。彼には、大学病院の研究生時代、外国人捕虜の生体解剖実験に関わった、忌まわしい過去があった。病院内での権力闘争と戦争を口実に、生きたままの人間を解剖したのだ。この前代未聞の事件を起こした人々の苦悩を淡淡と綴った本書は、あらためて人間の罪責意識を深く、鮮烈に問いかける衝撃の名作である。解説のほか、本書の内容がすぐにわかる「あらすじ」つき。

Amazon CAPTCHA

先日、「心に残った本」というエントリーで本書のことを取り上げたのですが、書いたら途端にまた読みたくなってきたので本屋に走って行って買ってきました。ちゃんと読むのは15年ぶりでしたが、何度読んでも傑作としかいいようのないすばらしい作品でした。


「生きることは選択の連続である」というのは偉い誰かの言葉だと思うのですが、この言葉のとおり、生きていくことは何かを選びとっていくことの繰り返しです。朝ごはんに何を食べるのか?なんて小さいことから、自分が進む学校や会社、または起業する・しないを決めるという大きな選択まで、たくさんの選択を繰り返しながら生きています。
積極的に選ぶことも選択ですし、逆に何も選ばないこともその人なりの選択であると言えます。


さて。そういった数多の選択の中にはその人の倫理観を浮き彫りにするような選択もあります。
何を善と思い、何を悪と判断するのかというのはもちろんその人価値観次第なのですが、「宗教的な倫理観を多数の人が共有している欧米とそうではない日本でこの部分が大きく異なる」ということを表現・主張しているのが本作です。


一神教を信仰する人はその神に常に見られていることを意識しているために、その神に見られてもはずかしくない行動を取ろうとするのに対して、日本人は多神教だったり無信仰の人が多いため、そういった行動規範や倫理の基準となるものがなく、結果として個人の判断を下す場合には(一神教を信仰する人から見て)倫理に欠けた行動を取ること多いということが主張されています。
思うに、日本人が共有できる価値基準を決めるものというのは「世間」になるのだと思います。
「他人にどう思われるのか?」「世間から叩かれないかどうか」ということが、個人の倫理判定の基準であると言い切るのはさすがに言い過ぎかも知れませんが、空気に支配されることの多い日本人にとって、世間というものがいわゆる一神教における神のような絶対的な存在であるというのは一面的には否定できない事実であると思うわけです。


いつ、何度読んでも新たな発見の多い作品でした。
また時間をおいて読もう。


(関連リンク)