「私の中のあなた」見たよ


11歳のアナ(アビゲイル・ブレスリン)は、白血病を患う姉・ケイトに臓器を提供するドナーとして、遺伝子操作によって生まれたデザインベイビーだった。彼女は、輸血や骨髄移植など様々な犠牲を強いられてきたが、ケイトの病状は一進一退。両親は遂に腎臓移植を決意するが、アナはこれを拒み、弁護士を雇い訴訟を起こす。「自分の身体は自分で守りたい」と両親を訴えるアナ。ケイトを最優先に考え、アナに迫る母親(キャメロン・ディアス)、何も出来ない父親、非行に走る兄、そしてアナの協力がなければ死んでしまう姉。アナと家族の戦いが始まった――。実話を基に著したベストセラー「わたしのなかのあなた」を原作にしたヒューマン・ドラマ。

『私の中のあなた』作品情報 | cinemacafe.net

(注意)
作品の結末に触れている部分があるので、未見の方はご注意ください。


TOHOシネマズ宇都宮にて。


普段は「感動のxxx」という売り文句がつけられた作品は観ないことに決めているのですが、この作品の予告やポスターからは感動を売り物にする作品独特の負のオーラが感じられず、むしろものすごい引力で興味を惹かれました。特にポスターがすごくよくて、ひさびさにA2版のポスターが欲しくなりました。
そして作品そのものも、期待していた以上によかったです。この作品を見て感じた気持ちは、感動という言葉には決して収まりきることのない感情でした。超すばらしい作品でした!!



以前、キューブラーが提唱する「死の受容プロセス」という話を読んだことがあります。
「死の受容プロセス」というのは、自分の死を知った人がそれを受け入れる際に行う一連のプロセスのことです。全員が全員、同じプロセスをたどるわけではないそうですが、基本的には以下の流れを踏襲するということが述べられていました。

死が訪れるという事実を拒絶し(否認)、その次に何で死ななければならないのだと憤り(怒り)、そして死なずに済む方法を模索して(取引)、打つ手がないことを知って絶望します(抑うつ)。そして最後に死を受け入れる(受容)。
本作ではケイトが死を受容したところから物語が始まり、そしてそこに至るまでのさまざまな出来事が過去の記憶をたどって描かれるのです。
わたしはその中にケイトが死を受容するプロセスが描かれるのかと思っていたのですが、そこに描かれているのは彼女ではなく、彼女の家族(母親であるサラ以外)がケイトの死を受け入れていくプロセスであり、ケイト自身の受容プロセスというのはほとんど描かれていません。覚えている限りでは、ケイトは終始死を受け入れていたように見えます
たしかにケイトは幼い頃に病気を発症したわけですから物心がついた頃からそういう状況であれば自然と受け入れたのかも知れませんが、それでもあまりに彼女があっさりとその点がわたしにはどうしても不思議に思えてなりませんでした。



わたしがケイトの気持ちを何となく理解出来たような気がしたのは、ケイトの母親であるサラの暴走が度を越えたものであることに気付き始めてからでした。
サラはケイトが病気になったことをきっかけに、弁護士を辞めて日夜ケイトの世話をするようになり、そしてケイトの命を救うために人工的に子どもを作ることを決めました。サラは自らのすべてを投げ打ってでもケイトを救いたいと願っており、その気持ち自体は親としてはまったく自然な感情だと感じたし多少度を越えてはいますがそうしたいと思う気持ちそのものにはつよく共感をおぼえたのです。


ところがサラの行動はどんどん加熱してしまい、アナの体からパーツを抜くように臍帯血や血液、あとは未遂ですが腎臓も取ろうとしてしまうのです。これは完全にやり過ぎなのですが、驚いたことにサラは家族の命を救うために必要なのだからしょうがないとまで言い切ってしまったあたりからどうしても彼女の発言や行動に違和感をおぼえることが増えてきました。
そんなサラの言動とそれに対する違和感を整理してみると、これは家族を可分な個人の集合ととらえるのかそれとも不可分な集合ととらえるのかという問いかけと同じことであり、それに気付いたときに思わず唇をグッとかみ締めてしまいました。このテーマは重い...。


サラの意識の中では、家族は単なる個人の集合ではなく「家族」というひとつの塊としてとらえられています。つまりケイトの死は大事な子どもを失うことであると同時に、家族全体の死に他ならないわけです。サラが、アナやジェシーには目もくれずにケイトの命だけに目をとらわれてしまったのは、かわいい子どもが死に瀕しているからという理由に加えて、自身が身を置く家族という共同体の死、ひいては自身の死とリンクしてとらえていたのではないかとも考えられます。だから家族という形につよくこだわり、何とかその形を維持しようと奔走しているようにも見えます*1



ところが、家族の構成員個人個人にも当然意思があり、「君には臓器が2個あるから1つ分けてあげてよ」なんてのは臓器を取られるかも知れない当人にとってはとても容易に容認出来ることではありません。大事な家族のために尽力したいという思いは共有出来ても、これから先の自分の人生に大きな影を落とすような事象であればそうすべきかどうか悩まない方がどうかしているとわたしは思うのです。


冷静に考えれば、たとえケイトがアナの臓器を移植して助かったとしてもそのためにアナが犠牲になることが正しいはずはないのですが、ケイトの命を救うことだけに執心しているサラにはそれが分からない。家族という形式に従ってなんとかそれを守ろうとしているサラですが、ケイトの命に固執し過ぎたためにその家族という形を壊してしまいそうになっているのは他の誰でもないサラなんです。
そんなサラに対して、「死の受容プロセス」の状態で言えば取引の状態にあると思われる彼女の心境を一気に受容にまでもっていったラスト間近のシーンには本当に参りました。自分や大事な人はいつか必ず死ぬのだということをどこかで受容しなければならないのだろうけれど、それは本当に苦しくて辛い事実です。そのことを、自分が死んだ後に残される人たちに対して出来るだけ受け入れやすいように準備をしておくことが先立つ人間の役割であり最後の仕事なのかも知れないなと感じました。


家族の崩壊が自分自身の病気に起因しているという事実をいち早く感じ取っていたケイトにとってみれば、自分の死を受け入れることそのものよりも、いかに母親に自らの死を受け入れさせるのかということの方がよほど難しい課題だったのかも知れません。


家族ってなんなんでしょうね。最近こんなことばかり書いているような気がしますが、でも本当になんだろうなと毎日そんなことばかり考えているわたしにはとても興味深い題材でした。



涙が出過ぎて、鼻水が出っぱなしだったので観に行くときはティッシュを忘れずにもっていくことをお勧めします。
本当にすばらしい作品!!



公式サイトはこちら

*1:シンプルにとらえれば、ただケイトや家族の死を否認している、もしくは生存の可能性を探して取引をしている状態にとどまっているだけなのかも知れません