悲夢


別れた恋人を忘れられない男・ジン(オダギリジョー)と、別れた恋人が憎くてたまらない女・ラン(イ・ナヨン)。ジンは、夢の中でかつての恋人と再会する。そんな彼の夢に呼応するように、彼女はかつての恋人と不幸な時間を過ごす。そして、彼らは出会った。彼らは精神科医に、二人が愛し合えば夢は消え、夢遊病も治ると告げられる。襲い来る夢の数々に、必死であがらう二人。彼らは悲しい運命を変えるため、静かに激しい恋に落ちていく。それがたとえ叶わぬ恋であっても…。過去の恋人の幻影を追い続ける男と、彼が“夢”の中で出会う美しき少女が織り成す、現実と夢が交差するファンタジック・ラブストーリー。韓国の鬼才キム・ギドク監督作15本目。

『悲夢(ヒム)』作品情報 | cinemacafe.net

山形フォーラムにて。
元々まったく面識がなかった男女が、男性の見た夢とまったく同じ内容を女性が寝ながら行動してしまうという不思議な現象を介してつながっていく不思議な作品。非常に伝わりにくい概要で申し訳ないのですが、それはそれとして、テーマが夢ということで昔から「夢」が好きだったこともあってとても興味深く鑑賞しました。


過去の恋人が未だに忘れられずに引きずってしまい夢にまで見てしまう男と、既に別れている恋人が憎くて忘れてしまいたい女。
こんな対照的な心理状態にある二人が、夢と現実というこれまた対照的な部分でつながってしまうというそのモチーフはとてもおもしろいと感じましたが、そのおもしろいという印象も観ている間に非常に恐ろしいことだという印象に差しかわってしまいました。
なぜこのまったく逆の位相を持つ二人が夢と現実と言う異なる部分でリンクしてしまったのかと言うことがとても不思議でならず、観ている最中も観終わってからもいろいろと考えてしまいました*1


それ以外にもとても不思議な要素がたくさん詰まった作品だったわけですが、この作品がもつユニークな世界観を作り上げているもっとも大きな要因は言葉だと断言出来ます。
具体的にいうと、オダギリはすべてのセリフを日本語で話しているのですが、その他の韓国の人たちはハングル語で話しています。異なる言語を互いに語りかけているのにそれが何の翻訳もないままに通じ合っている様相というのはとても不思議な光景でしてあまり他の作品では観たことがありません。まるでドラえもんの翻訳こんにゃくを食べた後みたいな状態が延々と続くのですが、この様子を見ていると人と人がつながるために必要なのは言葉ではないのだという主張をわたしは感じ取らざるを得ないのです。
# 実際には主演の二人が演技をするうえでいずれか一方が片言になるのが嫌だっただけだろうとも思います。


作品自体が面白かったかどうかというのはここではさておいて非常に満足出来る映画だったということははっきりと記録しておきたいです。観終わったあとの満足感というのとても強烈で「すごくいい映画を観たなー」という気持ちを心の底から感じることが出来ました。
ひとつの閉じた世界の物語を100%味わい尽くしたという充足感を与えられたからこその感想だと思うのですが、この感覚はなかなか得がたい感覚です。
わたしが以前から抱えている疑問のひとつとして、「映画とテレビドラマの違い」というのがあります。テレビドラマと映画というのは単に流れるメディアが違うということ以上に、何か毛色がまったく違うと感じているのですがその違いがうまく言葉にまとまりません。
そんなわけでこの問い自体に対する答えというのは未だに見つかっていないのですが、"映画らしい映画"という点においてこの作品は私のもっているそのイメージにものすごく近い作品だという印象を受けたのです。そしてそれは作品自身の面白さとは完全に独立した評価軸だというのも何となく理解出来ました。


ではいったいこの作品とその他多数の作品の違いは何なのか。
それが分かれば映画らしさというものについての自分の考えが固まるんじゃないかという気がしています。


それにしても今日の感想は「不思議」という単語が多いです。でもたしかに不思議な作品でした。


公式サイトはこちら

*1:その内容についてはまとまらないのでここでは省略