デジタルネイティブ―次代を変える若者たちの肖像 (生活人新書)
- 作者: 三村忠史,倉又俊夫,NHK「デジタルネイティブ」取材班
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2009/01
- メディア: 単行本
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ネット・コミュニティを自由自在に使い、不特定多数の人々と瞬時につながることで、新たな事業や組織を次々と創り出していく「デジタルネイティブ」と呼ばれる若者たち。従来の常識や価値観にとらわれない考え方や行動力によって、世界を一変させる可能性を秘めた彼ら新世代の今を追った最新ドキュメント。 NHKスペシャル番組の出版化。
http://www.amazon.co.jp/dp/4140882786
昨年11月10日に放送された「NHKスペシャル デジタルネイティブ」の書籍化版。
内容のベースは番組と一緒でしたが、放送内容に冠する補足説明や番組を作る際の裏話が載っていて非常に面白かったです。ただし基本的には番組の内容がほとんどでしたので、それを再度文字で確認するということ以上の意味はそれほどないような気がします。ですが、それでも番組が終わってから3か月ほど経っていますし、活字の情報として改めて触れてみると意外に新しい発見に出会うこともあります。
値段も660円と手ごろですし、番組を見ていない人には絶対にお勧めです。
本書を読んでいて気付いたのですが、参考のリンク先として紹介されているブログを見るとはてなダイアリーがとても多いんですよね。たしかに番組内でも近藤さんをはじめ、はてなという会社自体も紹介されていましたし、本書の冒頭で番組のディレクターである三村さんが最初に取材をした本間さんとのやりとりについても書かれてありましたが、本間さんもまたはてなユーザ(今はイギリスに留学されているそうですが)だったらしくそのあたりの話が少し載っていました。きっかけが偶然そうだったというのもあるのだろうなとも考えたのですが、でも他のブログサービスよりもはてなという場にはデジタルネイティブという言葉が似合いそうな印象はあるので、そういう偏りがあること自体には不思議と違和感は感じませんでした。
さて。ここから話があさっての方向に飛び去ってしまうので本書の内容以外に興味がない人は以降は読まないことをお勧めしますが、本書を読んでいて、昔「新人類」という言葉がはやったことを思い出しました。
と言っても私が幼い頃のことなのであまり詳しく記憶されていたわけでもなく、何となく頭の片隅にあった言葉がよみがえっただけなのでまずはいつごろどういう意味で使われていたのかについて少し調べてみました。そしたら流行したのは1980年代らしく、その当時のマジョリティだった人々*1の価値観とは大きく異なる考え方をする若者が目に見えて増えた時期らしく、その若者に対する呼称として流行した言葉らしいです。そういえば長州力が出てきたゲームもたしかそんな名前だったのは覚えてますがまあそっちはどうでもいいです。
デジタルネイティブという言葉を目にし、過去の人たちとは価値観を異にする人たちを見ていると世代間の隔絶みたいなものはいつの世もそれなりにあるものだなと感心してしまいます。昔は根拠の感じられない世代論なんか大嫌いだったのですが、育った年代が違うと見てきたテレビや読んできた本も違うわけで、さらには生きてきた社会背景だって大きく違うわけですから彼ら/彼女らのありのままを自分の価値観で測ってたら理解するなんてのはものすごく難しいんですよね。だから、酒でも飲みながら「今の若い奴らはさー」みたいなことを言って理解することは諦めてしまう方が楽だし、そうした考え方が上に書いた「新人類」という言葉には詰まっているんじゃないかなと思うわけです。お前らは俺らとは違うし、全然分からないよという切り捨てですよね。
何だかそういうのってすごくもったいないというか、分からないから名前を付けて適当にあしらってしまおうというのは何だか嫌だなと感じるのです。
そしてこれは非常に声高に叫びたいのですが、わたしは常日頃から何事に対しても名前をつけてしまうことにはとても苛立っていて、名前をつけてしまうことに対して皆もっと慎重になるべきではないかと思っていたのです。つまり、実体の有無にかかわらず、何に対してもそれらしくてかっこいい、わかりやすい名前を付けたがる今の世の風潮には全力で反発したいと思っています。
Web2.0やSaaS、クラウドコンピューティング...etc。
世の中には実体の有無に関わらずさまざまなアイディアが出てきてはそれらにかっこいい名前や略称が付けられて、それに多くの人が面白がって群がるという構図が出来上がっています。実体があるうちはまだいいですが、Web2.0のように定義もいまいちはっきりしていないけど、その言葉を聞いた人は何となくわかったような気になって各自が好き勝手に解釈しているような言葉が増えていることに一抹の不安というか、もっとストレートに言うと吐き気を伴うほどの気持ち悪さみたいなものを感じるのです。
これは技術に関することばかりではなく、何にでも当てはまります。
例えば、最近ネット上の掲示板でよく見かけるようになったものに、「アスペルガー」という単語があります。
(真っ先に思い出したのはここの人かな)
実際にこのような病気の人がいるのはもちろん公然の事実として認められるとして、例えば普段のやりとりには問題はないけれど少々コミュニケーションが苦手だと思われる人が掲示板などのやり取りで齟齬が出た途端「おれアスペルガーだからしょうがない」みたいな返しをされると「えーーー」とがっかりしてしまうのです。
普段はちゃんと会話出来てるんだからうまく伝えられなかったことをもう一度伝えなおせばいいだけなのに何でそこまで大げさなことにしちゃうのかさっぱり理解出来ません。
自分がうまく伝えられないのは単なる能力不足であって、それに対してわざわざ「アスペルガー」という名前を付けてまで出来ないことを肯定しないで欲しいのです。そしてそれを自己申告して免罪符にするなとわたしはいいたいのです。こういう行為が本当にその病気に苦しむ人により多くの偏見と迷惑をもたらしているだけなんですよ*2
名前のなかった何かに名前を付けるという事は、その「曖昧な何か」にラベルを貼って目に見える形にする行為です。なぜそのようにするのかと言えば名前がないものは未知のものであり、分からないからこそ本能的に恐怖を感じるためなのです。体調が悪い時にも、その体調不良の原因がまったく分からないよりは、それが風邪やインフルエンザだと具体的に分かった方が安心出来るのと一緒です。正体が分からないものほど怖いものはないです。
そして、この理屈でいうと逆に名前を付けることで本当は何も分からないものでさえも何となく分かったような気になってしまいまうという恐ろしいことが成り立ちます。
そしてこれこそが「安易に名前を付けるのはよくない」というわたしの主張するところであり、わたしがそう考えるもっとも大きな理由でもあるのです。
分からないものは分からないなりに「これはよく分からないんだよ」ということが分かるような呼び方をすればいいんじゃないでしょうか。そうすればみながその言葉の意図することを真剣に考え、よりその本質がはっきりとするのではないかと思うのです。Web2.0は「ネットで個人もぼろもうけ」とか、クラウドコンピューティングは「いろんなWebサービスを連携させてインストールなしでサービスが受けられる仕組み」というように意味や言葉の表す実体がちゃんと伝わる方がよいと思うのです。
話が発散するのは最近は恒例になってきたのでいまさらそのことに対して申し訳ないと思うわけではありませんが、デジタルネイティブという言葉もまたその実体がつかみづらい言葉ですので、この言葉が一人歩きしてしまわないように、そしてこれが一過性の話題だけで終わらないようにNHKで定期的に特集など組んでこの勢いで牽引して欲しいなと思います。
最後はいいまとめが書けてよかったです。