絶望という名のエーテルで満たされた学校という空間/「桐島、部活やめるってよ」見たよ


田舎町の県立高校で映画部に所属する前田涼也(神木隆之介)は、クラスの中では静かで目立たない、最下層に位置する存在。監督作品がコンクールで表彰されても、クラスメイトには相手にもしてもらえなかった。そんなある日、バレー部のキャプテンを務める桐島が突然部活を辞めたことをきっかけに、各部やクラスの人間関係に徐々に歪みが広がり始め、それまで存在していた校内のヒエラルキーが崩壊していく…。

『桐島、部活やめるってよ』作品情報 | cinemacafe.net

(注意)
本エントリーは作品の内容に触れている部分があるので未見の方はご注意ください。
あと私個人の恥ずかしい思い出も書いているので、読んでていたたまれなくなったら何も言わずに閉じていただけるとありがたいです。


TOHOシネマズ宇都宮で観てきました。

先日映画を見る前にこの作品の原作を読んだのですが、「高校を舞台にした群像劇」というもろにわたし好みな内容でしたが、いちいち回りくどい表現がどうしても性に合わず読み終えるのも大変という相性の悪さでした。後半まで読みすすめたら文章のクセには慣れたためにやや読みやすくなりましたが、最後までまわりくどい表現に違和感がぬぐえない文章でしてちょっとわたしには合いませんでした。


そんな状況でしたのでこれを原作とした映画が楽しめるのかどうか心配でしたが、原作から抽出したエッセンスをみごとに映像作品として再構築した素晴らしい作品となっていました。具体的には個人個人のエピソードの積み重ねとして描かれていた原作を、時間軸に沿って積み重ねるというふうに変更されていまして、このおかげで人間関係の相関や階層構造を分かりやすくかつ立体的なふくらみをもって感じることができました。

上でも書いたとおり、もともと「高校を舞台にした群像劇」という題材自体がすごく好きなのであまり冷静な評価ではないかも知れませんが、ここ数年観た邦画の中では断トツの出来と断言できるくらいおもしろかったです。


さて。
話は映画からすこし離れて唐突に個人的な話になりますが、わたしは高校に入ってすぐに隣のクラスの子を好きになりました。

行き帰りの電車が同じ方向だということもあって彼女のことは入学して間もなくから知っていましたが、廊下でルーズリーフをぶちまけたときにぐうぜんとおりかかったその子が一緒に拾ってくれたことをきっかけになんとなく話すようになりました。さらに同じクラスで仲良くしてた友だちがその子と同じ中学校の友だちだったこともあって、自然といっしょに帰ったり土日に友だちの家で遊んだりするようになって、気付いたらその子のことが気になって気になってしょうがなくなっていました。

いま振り返ってみると、あまりに単純で分かりやすいというか割とありふれたありがちなお話なんですが、高校に入るまでの15年間で好きになった子と仲良くなれたことなんて一度もなかったわたしにとっては、このことがすごく特別なことがのように思えたし、毎日の生活がうれしくて楽しかったことをよくおぼえています。


ところが、中間試験が終わって夏を目前にした梅雨入りくらいから彼女といっしょに行動することが減り、気付いたらほとんど一緒に過ごすことは無くなっていました。いままで乗っていた電車に彼女は乗ってこなくなったし、授業が終わって帰ろうと彼女のクラスに行くと既に彼女の姿は無いか、いても今日は帰れないと言われるばかり。

そんな急激な状況の変化にとまどっているうちにあっという間に夏休みになってしまい、特に何も予定がなかったわたしは平凡な夏休みを過ごしました。当時週刊マガジンで連載されていたわたしのバイブル「BOYS BE」によると、高校生の夏休みというのはたいへんいかがわしい思い出づくりに励むことが推奨されていますが、全然そんな出来事もなく、毎日本を読んでゲームをするだけという非生産的な毎日を過ごして夏は過ぎて行きました。


そんな夏休みも終わり、一ヶ月ぶりに学校へ行くと彼女は以前のよう普通に話しかけてくれたものの、もう前のような仲良しという雰囲気は無くなっていました。そしてある日彼女は夏休み前から年上の人と付き合っているということと、その相手が私が大嫌いな人だということを知りました。

もういっそ何も聞きたくもないのに、週に何度も彼女が泊まりに行ってるとか、でも男の方は遊びとしか思ってなくて他にも付き合ってる子がいるという情報も随時入ってきて、そのたびにどうしようもないほど苦しくなったし、泣きたくもなりました。

20年近く経ったいまでも、そのときの胸の奥を握りしめられるようなキュッと締め付けられる苦しさはよくおぼえているし、呼吸をすることさえ不可能に思えたあの息苦しさを思い出すとなんとも言えない気分になります...。


あのとき味わったような深い深い絶望はさすがにそう何度もありませんでしたが、仲の良かった友だちと別々のクラスになってしまったときや体育の時間に一緒に組む人が見つからなかったとき、野球部のチンピラみたいな奴にトイレで絡まれて泣きたくなったとき*1、好きでもない子に告白されて付き合うように好きだった子に説得されたときなど、その時々に絶望の淵に立たされました。


わたしは、この作品を観ながら高校生活というのは楽しかったこともたくさんあったけどそれ以上に悲しいことも転がっていて、そのひとつひとつに絶望をしながら生きていたということを思い出しました。この言い方はもしかしたら大げさなのかもしれないけれど、でも学校という小さな世界の中に作られたヒエラルキーは、自分は何ができて何ができないのかということを白日の下にさらし、そしてそれによって個人の資質は冷静に評価される対象となります。

そうやって分かりやすいいくつかの要素だけで自分自身の存在価値が決定づけられてしまうことがどれだけ残酷なことなのかということはあえてここで述べるまでもないと思いますし、それによって下に位置付けられた者がおぼえる絶望がいかほどのものかということも語るまでもありません。

やはり日常は絶望で埋め尽くされていたんですよね...。


その昔、物理の世界では光を媒体する物質としこの世のどこにでも存在しているものとしてエーテルというものが考えられたことがあります。音が空間を伝わるためには媒体として空気が必要であるように、光の伝播を媒介させるためにも何か媒体が必要だったのですがその当時はそれに該当するものが見つかっていなかったので、とりあえず「エーテルが媒介している」というふうに考えたわけです*2


この作品を観終えてふと思ったのは、学校という狭い世界だからこそ絶望が充満するということと、学校生活における絶望というのはまさにこのエーテルのような存在なんじゃないかということです。人はなにかを知ることで絶望し、その絶望をとおして自分の気持ちや他人のことを知ることが出来るんじゃないかと思うし、そしてそんなふうに日常が絶望で満たされているからこそ、楽しかった思い出やら出来事が余計に際立って美しい思い出として残るんじゃないかと思ったのでした。


大人になれば、自分がいまいる場所がこの世のすべてではないと分かるし、もっと広い世界があることを知っているからこそ物事に対してそう簡単には絶望しなくなります。もちろん広すぎる世界を知ってしまうことで絶望することもありますが、それでも学校のような狭い世界しか知らないよりは絶望するという機会は極端に少なくなります。


だからこそこの作品が醸し出す絶望に満ちた毎日というのはものすごく高校生だった頃の記憶を刺激してくれたし、観終えた瞬間にふっと体から力が抜けたときに「ああ、こんなに作品の世界に入り込んでしまっていたのか」ということに驚かずにはいられませんでした。

本作の内容は、わたしの過ごした学生時代とはなにひとつリンクする部分がないのに、それでもものすごい濃度のリアリティが感じられる作品でしてそのあまりの濃厚さにむせかえりそうになりました。


と、わたしの思い出話が長くなってしまいましたが、本作で私が一番好きだったのはバドミントン部の実果です。

自分に才能が無いことを知りながらもバドミントンを止めることも出来ず、自分と同じように才能に恵まれないのに努力を止めない風助に強烈なシンパシーと憧れを抱いてしまって惹かれてしまう実果というキャラクターには共感をおぼえずにはいられませんでした。

特に才能も何もないくせに風助や部活に励む人をどこかバカにしている沙奈に対して憤る実果の怒りはすごくよく分かるし、どんなに努力しても才能のある人間には勝てないんだという諦観もかなり伝わってきました。何者でもない自分と向き合いながら生きている実果につよく惹かれました。

精いっぱいやってもこの程度なんだと叫ぶ風助をじっとみつめる実果の表情はすごくよかったなあ。


ちなみに、この作品がDVDになった際には、映画部の撮った2作品「きみよ拭け!オレの涙を」と「生徒会・オブ・ザ・デッド」を載せてくれることを願って止みません。これが入ってたら観る用と保存用の2つを買うよ!




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公式サイトはこちら

*1:このときに助けてくれた友だちとはいまでも仲良くしています

*2:結局この仮説自体間違っていたわけですが