「ザ・ファイター」見たよ


1985年にデビューし、2003年に引退するまで数々の名勝負を残した、アイルランド系ボクサー、ミッキー・ウォード(マーク・ウォールバーグ)。ミッキーの片親違いの兄も元ボクサーだった。彼は、犯罪に手を染め刑務所に服役した後、弟のトレーナーとなり、2人は兄弟でチャンピオンを目指すこととなる ――。マーク・ウォールバーグクリスチャン・ベイルの2大スターが競演、ボストン南部の街を舞台にした、ふたりのボクサーの栄光と挫折を描く感動の実話。

『ザ・ファイター』作品情報 | cinemacafe.net

TOHOシネマズ宇都宮にて。


この世には面倒なものがたくさんありますが、わたしはその中でも「大人になってからの家族関係」というのは指折りに面倒な部類に入ると思っています。といっても嫁や子どものことではなく、両親や親戚などの方面の家族のことです。
幼い頃は親の庇護のもとで暮らしてその価値観に影響を受けて暮らすことになんの抵抗も覚えなかったのですが、あるときを境に、そういった一方的な関係がとても嫌になります。わたしの場合は働き出して2年くらい経ったくらいがその時期だったと記憶しているのですが、帰省した時にあれこれ指示されたり、自分のことすら満足に決めさせないことにほとほと嫌気がさしてしまい、大喧嘩をしました。
それ以降、基本的には過干渉なことはされなくなったのですが、でもそれでもなお面倒なことは少なくなくて最近では実家に帰ることも面倒だと思うようになっています。


もちろんすべての親子がこんなふうになるというわけではありませんし、これはあくまでわたしの例なのですが、このような関係になってしまう理由を考えてみたら2つの理由が思いつきました。


ひとつは、時間経過によって親子両者の関係が一部変わるのですが、それに対応できるかどうかの違いなんじゃないかということです。
具体的に書くと、「親と子」という関係は時間経過によって変わらないのに、「大人と子ども」という関係は時間と共に「大人と大人」という関係へとシフトするのですが、これにどちらかが対応できないことを想定しています。
分かりやすいケースとしては、親からみた子どもというのはきっといつまでたっても子どもでしかなくてずっと同じような扱いをしてしまうという場合や、逆にいつまで経っても親離れ出来ずにいる場合が挙げられます。


そしてもう一つの理由は、親が子を思う気持ちと子が親を思う気持ちというのは必ずしも同じではないんじゃないかということです。
親が子どもに抱く愛情というのは本能に近いモノ、ある種先天的なモノであるのですが、対して子どもが親を想う気持ちというのは育てられる中で後天的に与えられるモノがすべてだと思うのです。それが等価にはならないことの方がよほど自然なことだとわたしは思います*1し、そこで等号が成立しないことによって一方が一方を鬱陶しく感じるんじゃないかなと。


どちらも分かりやすくするために極端な例を挙げましたが、ここまで極端ではないにしても、一方が一方に対して抱く感情が他方と一致しない限りは必ず生まれる齟齬であり、そういった齟齬のひとつひとつが積み重なることで両者の関係が難しくなるんじゃないかと思うわけです。


ホント家族ってめんどくさいよね...。


さて。
本作「ザ・ファイター」はまさにその家族のめんどくささを全面に打ち出して描かれた作品であり、そして家族賛歌でもあります。
ボクシングという戦いの場、そして家族との関係に疲れたミッキーが、最後には家族の助けを得て勝利をつかむというお話なのですが、これが期待以上に面白くてすごくよかったです。
自分をお金稼ぎのネタとしか思っていないような家族に嫌気がさしていたミッキーは、2階級上の選手との試合を組まれたことや薬から離れられない兄の姿に決定的な溝を感じて別れようとするのですが、このくだりの演出がとてもうまくて観ているわたしもミッキーへ共感していきます。
こんな家族のもとにいたらダメだとか、独立したいという彼の気持ちに呼応するように、わたしも同じ思いを抱いて食い入るように見入ってしまいました。
結局、なんだかんだ言っても家族と生きていくことが自分に必要だと分かったミッキーが家族との共生を選ぶわけですが、このあたりの感覚には共感できないけれど理解はできるなと。長く一緒にいた人というのは欠くことのできない存在になるのは分かりますし、きっとミッキーにとっては家族とはそういう存在なんだったんだろうなとすごく伝わってきました。


一番身近な他人である家族というものの厄介さと特異さを再認識できる作品でした。なかなかよい作品。


公式サイトはこちら

*1:等価になる可能性は否定しませんが、そうなるとしてもそれはあくまで偶然そうなっただけであって必然ではないとわたしは考えます