祖父の少林拳道場を継ぐため、中国にある“少林拳武術学校”へ修行に出ていた凛(柴咲コウ)。しかし、3,000日の厳しい修行に耐えて日本に帰ると、道場は潰れ、兄弟子たちは辞めてしまっていた…。何とかひとりで少林拳を広めようと奮闘する凛は、類まれなる身体能力を持つち、ひょんなことから大学のラクロス部の助っ人に抜擢。それから、チームは勝ち進み、仲間と道場再建に向け着々と準備が進む中、凛の後を追う黒い影が。凛を狙う黒い影の正体とは? なぜ兄弟子たちは少林拳を辞めてしまったのか? そして、凛は道場を建て直し、少林拳を広めることが出来るのか――?
『少林少女』作品情報 | cinemacafe.net
TOHOシネマズ宇都宮にて。
柴崎コウ演じる少林拳を身につけた女性*1がその能力を活かしてラクロス部を勝利に導く物語...と思っていたのですが、この予想は全くの大ハズレ。いや、全然違うわけではないのですが想像していたのとはベクトルが全く異なるのです。
そして作品の内容も期待ハズレ。2001年に大ヒットした少林サッカーの後継作品と期待して行っただけに予想以上の出来の悪さに落胆せずにはいられませんでした。チャウ・シンチーの偉大さ/素晴らしさを再確認した作品でした。足元にも及ばないとはまさにこの事です。
この作品がここまで残念な作品になった一番の理由は、「少林サッカー」を意識すべき部分とそうでない部分を取り違えたのだといえます。はっきり言えば勘違いしているのです。
例えば、中国から帰ってきた凛が潰れた道場を見て過去の兄弟子たちを尋ねてまわるシーンがあります。これは少林サッカーでチャウ・シンチーが兄弟子たちにサッカーをやらないかと誘いに行くシーンを意識してしていると感じました。
これ以外にもボールを遠くへ飛ばすシーンとかその印象が似ていると感じるシーンがいくつかあったと記憶しています。
これほど同じような事をしたはずの少林少女がなぜつまらないのか?
それは本質的に少林サッカーは観客を笑わせたいということを重視していたのに対して、少林少女にはそのどうしたいのかという芯の部分が完全に欠落していたからだと感じています。この作品は表層的には少林サッカーを模していますが、一つの作品として発信したい事が全くといっていいほど定まっていません。笑わせたいし、そして感動させたいという都合のいい思惑が見え隠れします。
先週見たスシ王子でも書きましたが、笑いあり涙ありなんてのはそんなに容易な手法では実現できません。笑えるシーンと感動するシーンを用意されただけで出来るほど甘いものではないのです。
その点において、少林サッカーは一点の迷いもなく笑いをとって観客を笑わせることに注力していました。その結果、子どもも楽しめる面白い作品になったのです。これはチャウ・シンチーが信念をもってそのような作品を創り上げたからこそ出来たことなのです。
それが出来ず、単に同じようなシーンを並べてその中に感動しそうなシーンを混ぜ込んだところで違和感以外、何も感じるわけがありません。
そんな中。この作品の中で非常に印象に残っているセリフがあります。
江口洋介演じる岩井が、少林寺拳法を広めたいと周囲にその少林寺の型を押し付けようとしている凛に対してこうつぶやくシーンがあるのです。
凛 >先生(岩井の事)だって少林寺の教えを教えているじゃないですか?
岩井>違う。俺が教えているのは少林寺の心だ。
これってこの作品にも言えることじゃないんでしょうか。中途半端に少林サッカーの模倣をするよりも、少林サッカーが表現したかった面白さというエッセンスを自身の型に変えて表現すべきだったんじゃないかと思うのです。
柴崎コウや江口洋介など、これほど魅力ある面子をそろえておきながらこのような作品になってしまったという事は、重く受け止めて欲しいと思います*2。
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