ひとりの男が、突然失明した。それは悪夢の始まりだった――。原因不明、治療法もない、そして爆発的な感染力を持つ「白い病」が世界各地で発生。混乱を恐れた政府は、かつて精神病院として使われていた収容所へ、失明患者の強制隔離に着手する。止められない伝染病の蔓延に、不安と恐怖に駆られ、醜い争いを始める人々。しかしその中に唯一“見える”人間が、盲目を装い紛れ込んでいた…。ノーベル賞作家、ジョゼ・サラマーゴの「白の闇」を、『シティ・オブ・ゴッド』『ナイロビの蜂』のフェルナンド・メイレレスが映画化した心理パニック・サスペンス。
『ブラインドネス』作品情報 | cinemacafe.net
TOHOシネマズ宇都宮にて。
ある日突然目が見えなくなってしまうことの恐怖をテーマとして扱った作品かと思っていたので暗いところ嫌い*1の私は観ようかどうか迷ったのですが、予告を観ればみるほど面白そうだったし、大好きなガエル・ガルシアも出るということで思い切って観に行ってきました。人々がどんどん目が見えなくなっていくシーケンスはたしかにぞっとしたのですが、それ以上に目が見えなくなった人々のむき出しの欲望が恐ろしくてかなり打ちのめされました。目が見えなくなることよりも、それによって形成される新しい人間関係、力関係のおぞましさに鳥肌が立つような思いでした。
この作品で特に私の心がえぐり取られたのは、目が見えなくなったために格子付の病棟に押し込められてしまった人々の共同生活を描いたシークエンスすべてです。
目が見えない人にとっては自分の居る場所が清潔かどうかというのは見てわかるものでもなく、また、集団の中で生きることに精いっぱいな状態ではなおさらそういった生死に直接リンクしない部分までは気が回らなくなります。そうして人々の過ごす病棟はあっという間にゴミや排泄物で汚れていくことになりますが、見えない彼らの生活にはさほど影響はないのです。でも実際に見える人、例えば作中のジュリアン・ムーアはもちろんのこと、観客である私にとってはその場の汚れというのは大変たえがたいものであり正視にたえない環境なわけです。
加えて、誰もが相手から見られていないと思い込んでいることから、自分だけは助かりたいとか、自分のものは手放したくないという欲望に従属する行動を取るのですが、これも目が見える人からは見えてしまうわけでこれまた見たくないものを見るはめになるわけです。ただでさえ、目の見えない人たちとの集団生活という異常な状況に置かれている上に、さらにこんな相手の嫌な部分を露骨に見せられてしまった時に果たしてわたしは正気を保てるのかどうかと問われるととても自信がありません。
このように目が見えないことで逆にストレスを感じなくて済むことがあるというのは言い換えれば見えないことの優位性であり、つまりは目が見えないという負の状況になって初めて得られるものがあるということなのです。この部分が何となく頭の中に引っ掛かりました。
そもそも、この作品のメインテーマである目が見えなくなるというのはいったい何を表しているのか。
この作品を観ながらもわたしは頭の中はその疑問でいっぱいでした。病気なのかどうかも分からず、ただ突然目が見えなくなる人々というこの構図には何か意味があると思っていました。人間が行動をする際に必要な情報のうち80%は視覚から入る情報だといわれているほど目というのは重要な器官なのですが、これが無効化されてしまうということで変わることは何だろう?と考えてみました。いろいろと思い当たるのですが、やはり以前の20%以下に落ち込んだ外界からの情報に気を配るようになるのではないかということです。そしてこれは、今目が見えている人たちがいかに外界から入ってくる情報を軽視しているのかということを指摘しているのではないかと思うのです。
このあたりはまだうまくまとまっていないので、時間をかけて整理してあとでまた書こうと思います。
あと、この作品を観て感じたことがもうひとつあって、それは目が見えないことで他者との関係が非常にフラットになるということです。簡単にいうと、外見でその人を判断するルーチンがなくなるのでその分シンプルな関係が築けるということです。これはラストもラスト、本当に最後の方でダニー・グローヴァーが夢を問われて答えるシーンを観て気づいたことです。互いの外見が見えないことで得られる関係があるのかも知れないというのは、この作品からのひとつの問題提起なのかなと感じました。
あのシーンのダニーの心境を考えると、ラストシーンでの彼の表情にも何となく納得出来るのです。あのラストを見るためだけにもう一度この作品を観たいなと思うのですが、あそこに至るまでのプロセスを考えると映画館で観るのは止めてDVDにしようかと思ってしまいます。
公式サイトはこちら
*1:というか暗所恐怖症と言っていいほど苦手です