プロジェクトが失敗するたった一つの理由

何か大きな仕事をしようというときにはリソース(人やお金...etc)を集約し、それを最大限に活用して目標の達成に向けて活動をするというのは一般的な考え方です。
例えば、映画を作るときには"製作委員会"というのを作ってそこが中心となって活動することがよくありますし、企業においては何か大きなビジネスになりそうなものがあれば業務として"プロジェクト"を立ち上げて目標の達成に向けて活動します。


ひとまず、ここでは用語を統一するために立てられた目標を達成するための活動組織の単位を「プロジェクト」と呼ぶことにします。


プロジェクトというのは上述のとおり目標の達成に向けて日々活動を行うわけですが、残念ながらそのすべてが成功するわけではありません。人やお金、時間といったリソースが不足したり、想定していなかった外的な要因によってつぶされてしまったりと理由はさまざまですが、結果として立てた目標を達成できずに終わるものは決して少なくありません。
このように、目標を立てて活動しているのに達成できないというのは大変大きな痛手でして、そのプロジェクトに参加した人は精神的に大変大きなダメージを受けますし、経営者や出資者は金銭的なダメージを被ることになります。だから失敗に終わらないよう、他のプロジェクトの事例や過去の案件を調べて参考になる情報がないか調べたりするわけです。


さて。わたしはあまり持論をもたない主義なのですが、数少ない持論のひとつに「成功から学べることは少ないけれど、失敗からはたくさん学べる」というものがあります。もうちょっと具体的に申し上げると、成功者の言葉は万人に役に立つことは決してないけれど、失敗した人の言葉は誰にでも役立つ部分が必ずあるこという意味でして、成功事例よりも失敗事例に学ぼうぜ!ということです。


成功者の話なんて要約すればほぼ自慢話なんだし、さらに状況や条件の異なる成功事例なんてほとんど参考になりません。
成功事例をそのまま真似ても失敗に終わるのが関の山ですが、それに対して失敗事例は同じことを避けることでそれと同じ過ちを犯さずに済みますので直接的に参考になります。


では、わたしが過去に見てきた範囲でもっとも成功/失敗に大きな影響を与える要因、つまり「プロジェクトの成功/失敗を決定づけるもの」は何か?というと「プロジェクトメンバーに参加者(当事者)意識をもたせられるかどうか」だと断言できます。


最初に挙げたとおり、リソース不足など成功と失敗を分かつ原因はいろいろと考えられるのですが、当事者意識の有無に比べたら瑣末なことと言っても差し支えないくらい小さなことだとわたしは思います。メンバーや利害関係者が同じ方向を向いて自分がそこに参加しているという意識をもてるかどうか、それだけがプロジェクトの正否を決めるとっても言い過ぎではないと思っています。


自分がそのプロジェクトに参加しているんだという参加者意識。
自分がやらなければいけないんだという強い当事者意識。


そういった意識を生み出すのは、関わる人たち全員が「自分の意見に耳を傾けてもらえる」という想いを共有することだし、「自分もそのプロジェクトを動かしている一員なんだ」という自負であると思っています。そういう気持ちがメンバーから欠けているプロジェクトはまず間違いなく失敗していますし、メンバーのモチベーション維持こそがプロジェクトを成功させるために最低限必要な条件だとわたしは思っています。誰にも相談せずに独断ですべてを決めるリーダーの存在や、メンバーからの上申がまったく通らない風通しの悪い風潮は百害あって一利なしです。


ところで何で急にこんな話をしたのかというと、この失敗事例に該当する事例を本日のニュースで見つけてしまったからです。

宮城県は現在、震災復興計画第1次案の事務局原案を作成中で、6月3日に開催される2回目の「県震災復興会議」に提出、有識者の意見を聴取する予定です。この原案作成に野村総研が全面的にかかわっています。

宮城県の復興計画/野村総研が全面関与/知事「地元の人 入れない」


宮城県の復興案を近々提出しようということで、それに野村総研が関わっているというニュースでした。ここまでは特段おかしいところはなく、宮城県の復興方針を早く決めて動き出して欲しいと思っていましたが、最後まで読んで唖然としてしまいました。

村井知事は4月25日の記者会見で、会議の委員選定について問われ、「あえて地元の方はほとんど入っていただかないことにした」と表明。その理由として「地球規模で物事を考えているような方に入っていただいて、大所高所から見ていただきたいと考えた」などと語っていました。

宮城県の復興計画/野村総研が全面関与/知事「地元の人 入れない」


地元の人からは意見を聞かずにトップダウンで決めるということですが、市井の人の声を無視しておいて本気で復興できるの?と不思議でなりません。「大所高所から見て...」とありますがそんなマクロな視点だけで復興を語っていいんですかね...。
困っている人がたくさんいてひとりひとりの声に耳を傾けていられないというのはわかりますが、でも聞く耳すら持たないというその姿勢には疑問がわいてきます。
スピードが大事だというのも分かりますし、だからトップダウンでさっさと決めるのも効率的という点ではそのとおり間違ってないと思います。でもそんなふうに市民の声も意見も聞かずに作られた復興案でいいのか?と考えた時に、わたしはこれが正しいとは思えませんでした。


「この復興案で復興するぞ」というのと「どうやって復興するか一緒に考えて欲しい」というはニュアンスの違い以上に、携わる人たちのモチベーションは大きく変わるんじゃないかなあ。