「アデライン、100年目の恋」みてきた


現代のサンフランシスコ。市立の資料館で働き、老犬リースと暮らす29歳のジェニーは、ある日ホテルで行われた年越しパーティで、青年エリス・ジョーンズと出会い、惹かれあう。エリスの結婚記念日で彼の実家に招かれた二人。ジェニーとは初めて会うはずのエリスの父親は彼女を一目見るなり、驚愕の表情で「アデライン」と呼びかける。それは、彼が若い頃、心から愛した女性の名だった――。

『アデライン、100年目の恋』作品情報 | cinemacafe.net


本作はある出来事をきっかけに年をとらなくなった女性ジェニーを描いたお話でしたが、年をとらなくなったことで得たもの、失ったものが両方明確に描かれていたのがとても印象的でした。本作のおもしろいところはジェニーは不老不死ではなく不老であるという点です。

つまり死なないわけではなく単に老化しないだけという設定なのですが、こういう設定になってみて初めて気づくのは不死であることはさほど大事ではないのではないかということです。不老不死をのぞむ人はたくさんいますが、実際にそういっている人が本当に望んでいるのは老衰しないことであっていわゆる不死のことはあまり考えていないんじゃないかという気がしました。

だって事故や病気で体がボロボロになっても生きているとしたら、それはそれで怖いし嫌じゃないですか...。


わたしは「不老はいいけど不死はいらないかな」と思ったのですが、そんなわたしの感想はどうでもいいですね。すいません。

さて。われわれ人間にかぎらず、この世に生きとし生けるものすべては生まれる場所も時代も選ぶことができません。さらに持って生まれた能力もみな違いますし家庭環境だってバラバラ。そしてそういう自分ではどうすることもできない初期パラメーターがその後の人生の難易度の大半を決めているということはまぎれもない事実です。

生まれながらにして誰一人平等ではないのです。

ところが一つだけ誰にとっても平等なことがあります。それは1時間は誰にとっても1時間だということです。
わたしの1時間とあの人の1時間が違うということはありませんし1時間は誰にとっても1時間なのです。


時間は大きな川のようなものであってわたしたちはその上を流されているだけだと思っているのですが、そう考えると不老を手に入れるということはすなわち川の流れにのらないことと同義です。みなが下流に向かって流されているのに流されずにその場にたたずんでいる状態が不老だとすると、それってものすごいさみしいことなんじゃないかなと思うわけですが、本作はまさにそんな「時間の流れにおいてけぼりにされたさみしさ」が伝わってくる内容でした。

娘はどんどん大きくなるのに自分はいつまでも29歳のままで、いつの間にか娘は年老いてしまって老後を生きているわけです。
さらにどんなに誰かを好きになったとしてもその人といっしょに年を重ねることも叶わないのでいつも最後は一人になってしまうし、老いることのない自分に誰かが変な好奇心を抱かないように10年ごとに名前も何もかも変えて新しい場所で生活を始めるのです。


どんなに長く生きられるとしてもずっと一人というのは味気ないしおもしろくありません。

もちろん「生まれてくるときも死ぬとも一人なんだから人生なんて結局は一人なんだしだから一人でいることなんてぜんぜんさみしくないんだ」と強がってみることはできますが、でもせめて生きている間だけは誰かといっしょに過ごした方がいいじゃないかと思うし、本作のジェニーを観ていてもそうだなと感じました。

何百年と生きられる肉体的な不老を手に入れて生きられるようになったとしても、メンタルな部分はなかなかそれについていくことは難しいんだなと。少なくともわたしは不老も不死もいらないなあと見ながら実感しました。


ちなみに、わたしがこの作品ですごく好きなシーンは「やっと出会えた自分が年をとることができない人間なんだと打ち明けようと思ったくらい好きになった男性のお父さんが実は40年前に付き合っていたすごく好きだった人で、お父さんも彼女のことがすごく好きだったので忘れてなくて、そんなお父さんの前に40年前と変わらない彼女が出てきたもんだからものすごく動揺して、動揺しすぎたのか興奮しすぎたのか40年前の彼女との思い出をのろけだしたら横にいた奥さんにブチぎれられるシーン」です。


もし自分に息子がいて「今度彼女連れていくよ!」って言われて連れてきた彼女が昔付き合っていた人とうり二つでしかも当時と変わらない容姿で出てきたらそりゃビビるよなーと思うし、動揺のあまり失言してしまうのもしょうがないと思うんですよね。なんかあのシーンの容赦のなさにはもう冷や汗をかきながらも笑うしかなくてほんとおもしろかったです。


@MOVIX宇都宮で鑑賞