「私という運命について 第五話」見たよ


最終話の第五話を鑑賞。



今回、全5回に渡るこのドラマを観ながら人生って何だろうなということをあらためて考えていました。
なにか世界を変えるようなことを成し遂げたわけでもない、市井の人の一生。

36年間生きてきて感じるのは、人生に意味なんてないんじゃないかということです。

と言っても生きていることは無意味だとかそういうことではなく、生きていることそれ自体には何かとくべつな意味があるわけではないということです。その人が選び取ったひとつひとつの選択が形づくるのがその人の人生だというだけで、そこにいいも悪いもないし、意味があるとかないとかも無いんじゃないかなと。


話は少し変わりますが、最近伊坂幸太郎さんの本をまとめ読みしているのですが、2年ぶりに「魔王」を再読していたらこんなセリフが出てきました。

「人ってのは毎日毎日、必死に生きているわけだ。つまらない仕事をしたり、誰かと言い合いしたり。そういう取るに足らない出来事の積み重ねで、生活が、人生が、出来上がってる。だろ。ただな、もしそいつの一生を要約するとしたら、そういった日々の変わらない日常は省かれる。結婚だとか離婚だとか、出産だとか転職だとか、そういったトピックは残るにしても、日々の生活は削られる。地味で、くだらないからだ。でもって、『だれそれ氏はこれこれこういう人生を送った』なんて要約される。
でもな、本当にそいつにとって大事なのは、要約して消えた日々の出来事だよ。子供が生まれた後のおむつ替えやら立ち食いそば屋での昼食だ。それこそが人生ってわけだ。つまり」

「人生は要約できない?」


魔王 202ページから抜粋


再読しちゃうくらいですからこの作品自体もともと好きなんですが、とりわけこのセンテンスがすごく好きで心から共感をせずにいられません。「要約する」というのは長々とした情報の中から全体の概要をつかむために不要な情報を切り捨てることですが、そもそも人生で起きた出来事を要約することなんてできるのか?と考えるとどう考えても不可能としか思えないのです。


たとえば、このドラマの最終話でがんが再発したかどうかを検査したその結果を聞きに行こうとした康は、一人で結果を聞くのは怖いから亜紀に一緒に聞いて欲しいと、とつとつと乞います。もし再発していればもう命は長くない。そんな不安を抱えながら手をつなぎながらふと目を前に向けたその先には、子どもを連れた女性が幸せそうにエスカレーターを降りていく様子がうつるのです。

そんなさりげない一瞬の出来事。

もし人生で起きた出来事を要約すれば間違いなく削除されてしまいそうなこの一瞬も、当事者の二人にとっては生涯忘れられない一瞬であり、まさに人生そのものです。こういう他人から見ればどうでもいいような一瞬の積み重ねがわたしの人生の一部であり、そしてすべてなんだなと。この作品はそういった一瞬の積み重ねを見事に切りだしていて、市井の人の人生とはなにかということが描いているよい作品でした。


「自分が選択したこと、それが運命なのだ」というこのドラマの結末の句が示すとおり、人生には偶然も必然もなくてただなにかが選び取られたという事実とそれによって起きた出来事が並べられていくだけなんだろうなということを改めて思い出しました。


運命という言葉には不思議な強さがあるような気がします。

わたしは、運命とは大河の流れのようなものでもあり、人ひとりの人生はその上に浮かぶ小さな葉っぱのようなものを想像していました。だから起きた出来事は受け入れるしかないと思っていたのです。でもそうではないかも知れないということをこの作品は示してくれたような気がします。


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