「映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!オラと宇宙のプリンセス」見たよ


ある日のこと、些細なことで妹・ひまわりとケンカをしたしんのすけは、突如現れた謎の男2人組に言われるがままに「ひまわりを姫として預ける」という契約書にサインをしてしまう。野原家の上空に現れたUFOに“ヒマワリ星”に連れていかれてしまった野原一家は、地球存続のためにはひまわりが“ヒマワリ星”のプリセンスとなることが条件なことを知るのだが――。

『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!オラと宇宙のプリンセス』作品情報 | cinemacafe.net


TOHOシネマズ宇都宮で、ハホ*1とアオ*2と観てきました。


地球とヒマワリ星を救うために、ひまわりがヒマワリ星のお姫様として連れて行かれるというお話でしたが、親の視点で観るとなかなか耳の痛いところをついている作品でして、私自身の日常を反省しながら鑑賞しました。長くいっしょにいると、いつもいっしょにいるのが当たり前のように思えてしまいつい相手を軽く扱ってしまいがちですが、それでいいの?という問いかけにぐぬぬと下唇をかむしかできませんでした。


さて。
そんなわけで本作は家族同士の関係のあり方を描いたお話だと感じたのですが、本作を家族の関係を描いた作品であるとつよく印象づけるキーとなったは、作品のストーリーに家族以外のメンバーをほとんど絡めなかったことではないかと思います。

しんちゃんの映画をすべて観ているわけではないのですが、わたしが過去に観た劇場版の作品について思い出してみると、野原一家が主体となった物語ではありながらも、しんちゃんの友だちである風間君やボーちゃんなども出てきてそれなりな役どころを得ていたように記憶しています。

ところが今作では、その友だちもほぼ傍観者としての役割しか果たしておらず、唯一後半にわずかばかりの活躍の場が与えられたに過ぎません。

わたしはそのような演出にしたという事実から「本作では家族の問題にフォーカスしているんだ」という意図を感じましたし、そしてそれはそのイメージどおりに機能していたようにも感じました。まさお君好きとしてはちょっと寂しかったのですが、でも作品全体の印象作りとしてはとても正しい選択だったと思いました。


あと、もうひとつこの作品を観て思ったことがあって、それは人の幸せは大義の中にはないということです。

作品の中でヒマワリ星の王であるゴロネスキーが、「地球を救うのか」それとも「家族でいっしょに暮らすのか」を選べとしんちゃんに問うシーンがあります。それに対して「そんなのどっちも大事だし選べない」としんちゃんが叫ぶのですが、たしかにわたしも同じように思うし仮に地球が助かって多くの人の命が救われたとしても、そのことで家族が不幸になるのであればそれはその人にとって決して幸せではないだろうと思うわけです。

大人であるヒロシやみさえは、いったんは地球のためであればヒマワリがいなくなってしまうこともしょうがないとあきらめて受け入れようとするものの、やはり納得出来なくて自分たちの幸せを取りもどすために行動を起こすのです。


結局個人にとっての幸せというのは、国のためだとか、世界平和のためだとか、その他大勢に類する他人のためという大義の中にあるわけではなく、あくまでその人自身を取り巻く大事な人たちとの中にしかないんだよなと思ったのでした。


ちなみに、わたしはオープニングのクレイアニメがすごい気になってあれだけもう一度観たいなと思っています。

内容はオープニング曲である「希望山脈」に合わせて踊る野原一家というさほど目新しいものではないのですが、ひとつひとつの場面がなにか思わせぶりな演出であるように感じられてすごく忘れられないんですよね。具体的にどんなところが気になったのか?と問われるとはたと困るのですが、「ここには何か意図があってその意図を受け取りたい」と思わせるなにかがあったとしか言えないんですよね。


さすがにそこだけ観るためにもう一度観に行くのもアレなので、DVDになったら借りて観てみようと思います。
どうせハホがまた観たがるだろうし。


公式サイトはこちら

*1:長女

*2:次女