「ラビット・ホール」見たよ


ニューヨーク郊外の邸宅で、何不自由のない日常を送っているかに見えるベッカ(ニコール・キッドマン)とハウイー(アーロン・エッカート)夫妻。だが、2人は絶望の淵にいた。8か月前、息子のダニーは走る犬を追いかけて、開け放たれた門扉から飛び出し、交通事故に遭ったのだ。ベッカは息子の面影から逃げ、ハウイーは息子との思い出に浸る。同じ悲しみを共有しながらも、2人の関係は少しずつほころび始める。そんなある日、ベッカは街で見覚えのある少年と遭遇する。彼はダニーの命を奪った車を運転していたジェイソンだった。ベッカは偶然を装い、ジェイソンの後を追うが…。

『ラビット・ホール』作品情報 | cinemacafe.net

(注意)
作品の内容に触れている部分が多々ありますので未見の方はご注意ください。


フォーラム那須塩原でマコ*1と観てきました。

息子を不慮の交通事故で失った夫婦の姿を描いた作品ですが、観る前に覚悟していたほどに悲壮感や辛さを感じさせる内容ではなく、むしろどん底から立ち直るまでのプロセスを丁寧な手つきで描いたすてきな作品でした。

わたしは「落ち込んだ人が立ち直るプロセス」を見るのが大好きで、映画だと「マイ・ブルーベリー・ナイツ」や「ソフィーの復讐」、最近では「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」、そして本だと森絵都さんの「いつかパラソルの下で」なんかがその系統ではすごく好みです。


過去を受け止めて未来に目を向けることで生きる希望を得ようとした母親と、過去にすがって未来を放棄することで生きていこうとした父親の対照さが印象的でしたし、男女・夫婦の違いが個人的な感覚ともすごく符合するものでしたのでこの作品にはとてもシンパシーをおぼえました。

これはは本当にいい作品だと思いますし、観終わって帰ってくるときにもいっしょに観たマコと「おもしろかったねー」と話しながら帰ってきました。


印象に残っている3点についてまとめます。

1. 立ち直るプロセスの違いは性差なのか、個人差なのか?

たとえ太陽がいま無くなったとしても、太陽から地球に光が届くまでは8分間かかるので今からの8分間は太陽が無くなったということに気付かずに地球では太陽の光を見ることができる。


先日観た「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」で主人公の少年オスカーは大好きだった父親がいなくなってしまったことで自分の中から父親の存在が徐々に消えていくその猶予時間のことを、この「太陽が消えてからその消失の光が届くまでの8分間」に例えていてうまいな表現だなと感心しました。

オスカーはその8分間の猶予時間をのばしたい一心で、父親の残した鍵の使う先を一心不乱に探し回るわけですね。


このように、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」のオスカーも本作のハウイーも大事な人を亡くしたときにそれを乗り越えるのではなく、過去に目を向けるんですよね。そしてその人の残り香を生きる糧にしようとするわけです。わたしも性格的にはオスカーに似たところがありますし、過去にすがろうとするところには共感をおぼえるのです。


対して、母親のベッカは過去よりも未来に目を向け、新しい未来を得ることで過去の悲しい出来事をのりきろうとします。そういえば女性と経営者は未来志向だ!という、主張はともかく内容は電波ゆんゆんな本を先日読んでめまいがしたばかりだったことを思い出したのですが、まあそれはそれとして、つまり目を向ける先がハウイーとはまったく逆なんです。


これは性差なのかそれとも個人差なのかは分かりませんが「恋愛は女性は上書き保存で、男性は名前を付けて保存」という笑い話を真に受けてみると、傾向としては性差と言ってもいいんじゃにかなと思ったりしています。

2. 浮気相手に求めるもの

妻であるベッカと意見が合わず、日に日に疲弊していったハウイーはあるイベントで知り合った女性と浮気をしそうになるのですが、ここがもう強烈過ぎます。

いくらケンカ中だと言っても家にあんだけ美人の奥さんがいるのにあのかわいくもなんともない女性と浮気しそうになるのか?と言いたくなったのですが、でも冷静に見ていたら「浮気するときに相手には顔なんて求めないかも知れないな」とか「心が弱っているときはもうバーリ・トゥード(何でもあり)なんだろうな」といった、同性としてハウイーの行動に対して理解を示せるところもあったりするのです。


それはひとえにこの作品がもちあわせたリアリティの賜物であり、「ここでこの人とこの人が浮気しそうになる」というところにものすごく必然性を与えられたというか、ハウイーのおかれた状況やあそこのシーンへのもっていき方がとてもうまくてあのシーンに異様なリアリティを感じてしまったんですよね。

あのシーンはかなりドキドキしました。

3. 加害者との関係描写

ベッカは、自身の子どもを誤ってひき殺してしまった少年ジェイソンがバスに乗っているのを偶然見つけ、そこから二人で話すようになります。
ベッカはジェイソンと同じ時間を共有することで、たとえばジェイソンは悪い人間ではないということを向き合い、彼が起こした事故は不慮の事故であったことを認めることで過去を受け入れようとするわけです。

ところが、父親であるハウイーにとってジェイソンは大事な息子を奪った憎い相手でしかなく、その姿を見るだけで心がかきむしられるような辛さを味わうことになるわけです。

これは上で書いた態度の違いにもつながるのですが、実は見ていて「もしジェイソンが男ではなく女だったら果たして同じようになったのか?」と疑問に感じたのです。つまり、ジェイソンが女の子だったとしたらベッカとハウイーのとる態度は同じになるのか?ということです。
これはなにか根拠があるわけではありませんが、何となくベッカとハウイーの態度は逆になるんじゃないかという気がちょっとしてます。

同性同士だから理解しあえることがあるのと同じように、異性同士だからこそ受け入れられることもあるんじゃないかと思うんですよね。


なんとなく感想がまとまらない匂いがプンプンしてきたのでそろそろ打ち切ろうと思うのですが、本作を観てから「性差や同性同士だから理解しあえること、異性同士だからうまくいくこと」についてずっと考えています。



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