「ミスター・ノーバディ」見たよ

ミスター・ノーバディ [DVD]

ミスター・ノーバディ [DVD]

2092年、科学の進化により人類は不死となっていた。その中で最後の「死ぬことのできる」人間であるニモは、118歳の誕生日を前に人生を終えようとしていた。
そんなとき、1人の新聞記者がやってきてニモに質問をする。「人間が“不死”となる前の世界は?」ニモはその人生を語り始める。
両親の離婚―母とよその街へ行っていたら、父とここに残っていたら…。
3人のガールフレンド―あのときエリースに手紙を渡せていたら、あのときアンナと再会できていたら、あのときジーンと結婚していたら…。
人生における幾通りもの選択。ニモは少しずつ過去をさかのぼっていく―。

http://www.amazon.co.jp/dp/B005GIHH0C

公開前からすごく観たくて何とか映画館で観られないかと画策していましたが、昨年10月に秋田で見逃したのを最後にロードショー上映は終わりを告げ、さらに都内の名画座でもまったく上映する気配がないのでいまだに映画館で観るという願いはかなっていません。

普段であれば「観たい作品は最初は映画館で観る!」というわたしのジャスティスを発動させて気長にどこかで再上映してくれるのを待つのですが、この作品だけはどうしてもいますぐ観たくてDVDを借りてきました。
そして観てみればその期待どおり、いや、期待していた以上にすばらしい作品でしたので観終えてから「やっぱり映画館で観たかったなー」という後悔がふつふつとわいてきました。いまからでもいいのでどこかで上映してくれないかな。


さて。
本作は人々が不死になった近未来において、唯一死に囚われているニモの最期を描いた作品です。
生の終わりを目前にして自らの人生を振り返るニモ。
大きな失敗や失言、さらに大事な人との別れや選択など、人生の岐路をいくつものルートを同時並行的にたどるように物語がつむがれていくために、ニモが歩んだ人生は果たしてどれなのか分からずに混乱してしまうこともありました。

まるで虚実が不可分となった粒度で混ぜ込まれたこの物語を追いかけているうちに、「どれが本当でどれが嘘」だと考えるのは間違っていて、これは脳の中の記録を物理的な配置にしたがってシークしているんじゃないかと考えるようになったのです。


これをどう説明をしたらいいのか考えてみたのですが、たとえばハードディスクに入っているデータはすべて状態が0と1の信号の組み合わせであって、大事なデータかどうかというのはこの0と1という状態だけみても判断することはできません。すべてが等しくただの信号なんです。

ところがこのディスクの中をファイルとして見てみるとその中には「大事な写真」「不愉快なメール」「昨日作ったプログラム」「今月の家計簿」というまったく異なるデータであると区別できるようになるのです。

これと同じように、ニモの記憶が語る物語は「現実の記憶」と「想像の出来事」がすべてないまぜになっていてそれらを区別することができない状態になるのではないかと感じたのです。そもそもそれが現実のことなのかどうかというのは、他者の記憶や客観的な事実と結びつけられることでしか検証できないわけで、ニモと同年代を生きた人がおらず、客観的な事実のないこの世界においては検証できなくて当然なんです。


記憶と想像の曖昧さ。

物語の解釈はいろいろとできますが、わたしは本作が伝えたかったことのひとつはこのことではないかと感じました。


また、本作はかつてどの作品でも観たことがないほどに映像表現がとてもユニークで、その豊かさや美しさには思わず涙ぐんでしまうほど惹きつけられました。

プールに飛び込むシーンを俯瞰からとらえたシーンや、はたまた線路が別れ、交わり、また別れるという映像をとおして人と人の出会いや別れを表現していたシーンなど、どれも「惹きつけられる」という程度の表現では足りないくらいにわたしを魅了してやみませんでした。


あと好きだったのは忘却の天使のところですね。忘却の天使というのは、生まれる直前に記憶を全部消してくれるという天使なのですが、その天使が記憶を消した証として鼻の下に溝をつけてくれるのです。これってみんなが鼻の下についているあの溝なんですが、これが全部忘れた印なんだそうで、その流れを説明してくれるところはとてもかわいらしくてよかったです。


好き過ぎるものに出会ったときの感動を伝える言葉をもたないことが、こんなにももどかしいことなのかといまもモヤモヤとしています。


(関連リンク)


公式サイトはこちら