「牛の鈴音」見たよ


その老いぼれ牛は、お爺さんと一緒に30年も働きつづけた。耕作機械も農薬も使わないお爺さんと一頭の牛の物語が伝える。「ないこと」、「遅いこと」は、こんなにも美しく温かい――。老いた農夫と一頭の牛の暮らしを見つめたドキュメンタリー。本国韓国でドキュメンタリー映画の記録を塗り替えるヒットを記録した。

『牛の鈴音』作品情報 | cinemacafe.net

宇都宮ヒカリ座にて。


先日twitterで見たあるつぶやきがずっと忘れられなくて頭の中でぐるぐるとかけめぐっています。

人生に選択があるうちは、他人の人生。

finalvent on Twitter: "人生に選択があるうちは、他人の人生。"

わたしは「何かをしたい」とつよく願うことはあまりないのですが、「何かができなくなる」ことはとにかく嫌で、いま現在できてことに制限が課せられそうになるとかなり抵抗してしまいます。「○○したいんじゃなくて、○○出来なくなるのが嫌なんだよ」とわたしは表現するのですが、結局わたし自身の行動の選択肢が減ることが本当に嫌で嫌でしょうがないのです。
単なるわがままだと言われたらまったくそのとおりなので言い返すことが出来ませんが、でも積極的に何かをやりたいと思うことが少ないわたしは、ただでさえ少ない自分の選択肢がさらに減らされてしまうことが怖くて怖くてしょうがないのです。


そんな臆病なわたしは何かをちゃんと選択することを極力拒みながら生きてきました。
何かを選ぶのではなく、はっきりと何かを選ばないことを選んでいたのです。
もちろん何も選ばなかったからといって、次に選べる選択肢が減らなかったのかといえば全然そんなことはありませんし、そもそも選ばないということもひとつの選択ですから結局は選択肢がなくなっていく状況は変わりないのです。
わたしはそれでもいいんだと思っていたのですが、所詮選ぶ勇気がなかっただけのわたしにに残されたのは「まだ選択肢が残っている」という誤解だけでした。
わたしはまだ転職しようと思えばできるし、海外にだって働きにいける。もう一度大学に入りなおして好きな勉強をしなおすことだってできるはずだし、何だったらその勉強のために留学だってできる。わたしにはまだ選択肢がある。わたしにはまだ選ぶ余地がある。
心のどこかでそう思いながら生きているのです。
でも別にそうしたいとつよく願っているわけでもないのに、ただ自分の可能性は潰えていないと信じたいだけなんですよね...。


そうやって何も選ばずに生きている毎日は、例えるならばロールプレイングゲームの主人公を操作しているようなもので、本当にきみの人生なの?と問われても何も返す言葉がありません。


本作は一組の夫婦と牛の終生までの一年くらいを描いた物語ですが、その切迫感とは対照的に見ているだけでこうなりたいとうらやましく感じる作品でした。大変だし、苦労も耐えないけれど、自らの人生としてちゃんと受け入れている二人の姿にはとてもグッときました。
わたしはちゃんと自分の人生と向き合うべきだし、そういった覚悟をしなければならないということを思い知らされた作品でした。


逃げちゃダメだ!!


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