「夏のこどもたち」読んだよ

夏のこどもたち (角川文庫)

夏のこどもたち (角川文庫)

朽木元。中学三年生。五教科オール10で音楽と美術も9か10のちょっとした優等生。だけど、ぼくには左目がない―。世の中を冷めた目で見る少年が、突然、学校一の問題児と一緒に校則委員になるように、担任教師から指名されて…。クールで強烈な青春を描いた日本版『キャッチャー・イン・ザ・ライ』ともいうべき表題作に、単行本未収録短編「インステップ」ほか2本を収録。多くの少年たちに衝撃を与えた傑作が待望の文庫化。

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「リアリティが感じられる」


これはわたしが映画を観たり本を読んだときについつい口にしてしまう言葉なのですが、いかにも自分が体験したことのように感じられる描写に対してこのような発言をしてしまいます。ストーリーのベクトルによっても異なりますが、ファンタジーや寓話でない場合には、リアルに感じられるというのは基本的にはよい方向に作用するものであり、ほめ言葉だと思っていました。


ところが、ここ一年くらいは本当にリアルに感じられることはよいことなのか?という思いがずっとあって、そして先日「リリイ・シュシュのすべて」を鑑賞した時にそうではないことをはっきりと理解しました。


話はちょっと変わりますが、わたしは学生時代を舞台にした映画がとても好きなのですが、この手の青春映画を評価するひとつの軸に「リアルに感じられるかどうか」という評価軸があります。
観ていて、「こういうシーンは、いいなあ」とか「こんな風景、懐かしいなあ」と感じられるその瞬間にとても幸せを感じるし、学生時代にありがちな甘酸っぱい思い出や、ちょっとした行き違いで起こってしまった別れの場面なんかを見ながら、その作品の世界と自分の過去をリンクさせて作品に興じているわけです。


でも冷静になって考えてみると、わたしにとってその風景、出来事はまったく同じものでは当然ないし、出来事そのものだって詳細まで見れば同じものなどまず見つかりません。


ちゃんと向き合ってみれば、わたしがリアルだと言っていたものは結局は何も私の現実とはリンクしていないし、似通ってすらいないのです。


そうやって考えてみてやっとわかったのは、わたしが望んでいるリアリティのある作品と言うのは、結局は5%程度の類似性をベースに成り立った95%のフィクションの作品だということでした。


ここで5%を閾値としたのはあくまで体感によるものです。数値化なんて出来ませんし、あくまでおおよそのイメージです。


類似率が5%よりも低過ぎるとあまり過去の思い出とリンクせずさほど思い入れを持つことが出来ないのでさほど好きになれないというのは当然ですが、逆に5%よりも高くなりすぎると今度はその生々しさに観ているのがとてもつらくなるのです。例えば、「リリイ・シュシュのすべて」のいじめのシーンなどは、わたしが中学、高校で実際に観たことがあるそれと似通いすぎていたためにとても不愉快になったよい例だと言えます。


過剰にリアリティがありすぎることは決してプラスには作用しないことを知った上で、適度な、それも比較的受け入れやすいリアリティを混ぜ込んだ作品をわたしは選りすぐって「リアリティが感じられる」と評価していたのです。


で、本書についてですが、これははっきりいって生々し過ぎます。
中学生が身近な人を選んで自慰のネタするなんてのはみたくもないものを眼前に差し出されたような最低の気分にすらさせてくれます。
リアリティの感じられる作品を読みたいという人にはお奨めしたいのですが、わたしはもう二度と読みたくないです。