誰も守ってくれない


ごく平凡な4人家族の船村一家の未成年の長男がある日突然、小学生姉妹殺人事件の容疑者として逮捕された。東豊島署の刑事・勝浦(佐藤浩市)は突如、その容疑者家族の保護を命じられる。彼に与えられた任務は、彼らをマスコミの目、そして世間の目から守ること。勝浦は、容疑者の妹・沙織(志田未来)を連れて逃避行に出るが、マスコミの容赦ない攻撃とネット上の掲示板の悪質な書き込みが2人を追い詰めていく…。傷つけられていく沙織を必死に守る勝浦だったが、彼もまた、過去に捜査していた事件である幼児を死なせてしまったことから心に深い傷を抱えていた。逃げ場を失う2人は、次第に傷ついた心と心を通わせるようになるが――。「踊る大捜査線」チームが、容疑者家族の保護をテーマに描いた社会派ドラマ。

『誰も守ってくれない』作品情報 | cinemacafe.net

MOVIX宇都宮にて。
これはすごい...。わたしはこの作品の冒頭10分間を一生忘れられないと思います。
いつもと同じような日常を送る沙織や彼女の母の姿。そしてそれとオーバーラップする形で進む沙織の兄確保に向けた警察の行動。
これまでも、そしてこれからも生きていく限りずっと続くと思われた平凡で幸せな日常が壊れる瞬間というのはまさにこんな感じなんだろうと嫌でも納得せずにはいられない説得力のある映像にただただ圧倒されました。以前、「4ヶ月、3週と2日」の感想でも書いたけれど(その時のエントリはこちら)、人生のターニングポイントになるような出来事があった日ほどその一日の始まりというのは穏やかなのです。でも穏やかだからこそ、そのあとに起こった出来事により大きな衝撃を受け、そしてそのことが平時と何も変わらなかった朝までも忘れられないものとなるのです。


警察が踏み込む様子に呆然とする母の表情、そして何も知らずに学校での生活を謳歌していた沙織に力なく声をかける先生の姿。
さらにそれに追い打ちをかけるように訪れる、物理的にも社会的にも壊されてしまう家族という形。この家族崩壊のさまを観た時に、わたしの両手の震えがどうしても止まらないことに気付きました。1日1日を10年単位で積み上げて作りあげられた家庭がたった数時間で2度と戻らないところまで壊れてしまうことの恐ろしさを目の当たりにしただけではなく、その渦中に投げ出されたとしか思えないような臨場感あふれる映像のおかげで「映画を観て体が恐怖で動かなくなる」という経験を初めてしました。


この感覚は未見だった上に想像していたものをはるかに上回るものだったから味わえたものであり、例えこのシーンをもう一回観たとしても二度とここまで感情を揺さぶられることは絶対にないんですよね。あのつま先から頭のてっぺんまで震えが止まらないような衝撃はものすごく貴重な経験だったなと感じています。


ここで一気に気持ちを加害者家族視点にもっていかれたために、あとは作品の中にすっぽりと入り込んでしまいました。
インターネットという場が出来たことで一個人が社会正義という名の下に私刑をくだせるようになったという事実や、「知る権利」という建前を武器にして加害者/被害者家族の生活を踏みにじるマスコミという存在。さらには「加害者家族に対する社会全体から加えられる制裁」の怖さ。
上記のとおり、どうしても視点が加害者家族寄りになってしまうため、これらの仕打ちに対して強い憤りを感じる一方で、けれども犯罪を犯した本人はもちろんのこと、そのような犯罪を犯すような人間を作り上げた「犯罪者の家族」と言うコミュニティの存続すらも許せないと感じる気持ちも十分分かります。
といっても連帯責任とかそういうものではなくて、単純に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という、ただそれだけなんですけどね...。


この作品自体、「警察が加害者家族を守る」ことの是非を問うことをテーマとしており、また、加害者家族に対するさまざま人々からのさまざまな仕打ちのひどさ/残酷さを描いた作品ですから、観終わったときには「加害者家族に対するこのような扱いは止めよう」という気分になって当然ですし、そのように感じる人が多数なのではないかと思います。
実際に、わたしもそのような感想を持ちましたし、絶対にこのような事があってもならないと心の底から思ったのです。


ですが、ここでもう一度考えなければならないのは、同じ事を"どんな家族構成であってもそのように思えるのかどうか"と言う点です。ここはしっかりと考えなければならない。
例えば、この作品を観てなぜ「このようなひどいことは止めないといけない」と強烈に感じたのかと言えば、容疑者の妹を演じた志田が表現する「小動物のようなか弱さ」を観て守ってあげたいという感情をたたき起こされからであり、そしてその弱い彼女に対して投げつけられる社会全体からの容赦ない仕打ち、そしてその過酷さに強い反発を覚えたからだと考えます。
つまり「加害者家族とそれを取り巻く社会」という一般論としての構図ではなく、もう少し具体的な構図である「か弱い女の子と彼女をいたぶる大勢の人間」という一例を観ただけに過ぎず、これをもって加害者家族に対するバッシングは止めようといつもはっきりと言えるかと問われるとたぶんそうではないだろうなと思うのです。


もし、加害者家族の代表例として「加害者の妹」ではなく、「加害者の母や父」だったらどうだったのか。
また、志田のようにか弱い人間ではなく、堂々と自分自身には非のない事を主張するような強い人間だったらどうなのか。


わたしは彼ら加害者家族に反発を覚えるかも知れないし、もしかしたら家族に対しても何らかのペナルティを与えるべきだ何てことを考えてしまうかも知れません。論理的に考えればおかしなことなのに、相手に対して何かしらの感情が混入してしまったがために、何が正しい考えなのかという判断が揺らぐなど、本当に情けない話です。


それでも私一人がそのように考えているだけであれば「私は小さい人間」という話で済むからまだよいのですが、これがもし多数の人間の感情が同じベクトルを指向してしまうと、この「おかしい」が「正しい」として解釈されてしまうことが許される空気が作られます。こういう明らかに間違っている「社会正義」が横行するような世の中にはなって欲しくないなと思いますし、そのためにもひとりひとりがもっと成熟しなければいけないなと思うのです。


観ながらも、そして観終わってからもいろいろと考えることの多い作品でした。
そして本当に素晴らしい作品でもあったことを付け加えておきます。もう一回観たいけれど、この感動が薄れそうなので我慢することにします。


[追記]
ちょっとほめすぎた感があるので、少し気になったところも書いておこうと思うのですが、ドラマ版の「誰も守れない」を観ていないと分からないんじゃないかという箇所がいくつかあって意外でした。
彼氏が出来たらシャブ漬けに...なんてくだりもそうですし、そもそも木村佳乃の立ち位置なんてドラマを観ていないとさっぱりだと思います。あとは佐藤浩市が娘へプレゼントを買うというあたりの話もドラマを観ていないとなかなか話が膨らまないですよね。
わたしはドラマを観ていたのでそれらの絡み方がものすごくよかったなあと思うわけですが、もう少しドラマは独立させてもよかったんではないかなと感じました。


わたしは松田龍平がものすごく好きなので、ドラマ版の方こそもう一度観てみたいなと改めて思ったのでした。


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