嫌いは好きの始まり

何かを嫌いになるのは、その何かを好きになる予兆だ。
こんなことを言うと、それを聞いた多くの人は「嫌いなものを好きになるなんてそんなにあることじゃない」と言います。
「お前はいちいち大げさなんだよ...」とか言われちゃったりして、放っておいたらJAROに言いつけられるんじゃないかと思うくらい糾弾されることもしばしばです。
おれかわいそう...。
でもたしかにそういわれても言い返せないくらい日常には「嫌いが好きになる」経験が少なすぎるとも思います。


いくつか日常を例に考えてみると、例えば、顔を見るだけで殴りたくなるくらい嫌いな人が、寝て起きてみたら好きになってましたなんて話はあまり聞きません。あまりというか一度も聞いたことがないので、たぶん現実にはありえないんだろうなと思います。
さらに嫌いな食べ物がある日突然好きになるというのもないなー。わたしはきゅうりが嫌いだったのですが、今は何とか食べられます。でも好きと言うほどじゃないし、今回の件とはうまくつながりません。

いろいろと考えてみて、改めて好きと嫌いというのはそう簡単には交わらないじゃないかという気がしてきます。


そう言えば、ここまで書いていて思い出しのですが、好きの反対は無関心だと言う人もいます。そしてこの意見は意外に多くの人の賛同を得ているように見えますし、実際にネット上を探してみるとそのような記事に対する反応は概ね良好なのです。
ですが、私に言わせればこれは単に「好き/嫌い」という対立軸を「興味がある/ない」の対立軸に置き換えているだけであり、単なる言いがかり以上の何ものでもありません。
興味の有無ではなく、あくまでその興味の方向を+/-を持つ一次元の数直線のようなものとして考えてみると、ひとつの方向を好きと定義すればそれの逆方向が嫌いと定義出来るような、そんな関係が好き/嫌いだと思っています。そして、この+と-の中間地点が無関心だと私は結論付けています。


と、何だか書けば書くほど「嫌いは好きの始まり」というこのタイトルは信憑性を失うような気がしてきます。あまり考え過ぎるともうこのエントリを一生書けなくなりそうなので、そろそろ本題に入ってしまおうと思います。


このタイトルのようなことを考え始めたのはこの本を読んでいる時でした。


マイクロソフト戦記―世界標準の作られ方 (新潮新書)

マイクロソフト戦記―世界標準の作られ方 (新潮新書)


この本はMSXからWindows3.0というマイクロソフト(以下MS)の黎明期からスタンダードとしての第一歩を踏み出すまでを経験した著者の体験記です。わたしはこの方を存じ上げないのですが、現在パソコンにおいてはデファクトスタンダードとなったMSがどのようにして今日に至ったのかというその点には昔から非常に興味があったので手にとって見たのですが、これが予想以上におもしろくてかなりハイテンションで拝読しました。
この本の詳しい感想は後日まとめますが、この本を読んで何に驚いたかって、わたしがあまりにコンピュータの歴史について造詣が無さ過ぎる事にびっくりしたのです。初めて買ったパソコンがWindows98だったわたしは、Windows3.0なんて見たこともないし*1、ましてMSXとかなんて見たことありません。それなんてゲーム機?くらいの知識です。PC9801もそんな感じ。
この作品の舞台が80年代中盤から後半ですから年代的には全然守備範囲内ですし、プログラムを作ってご飯を食べているわけですから職業的にも私はこれらのコンピュータについてもっといろいろと知っていてもよいはずなのに知識がゼロって...。


この本で舞台にしている80年代中〜後半当時を振り返ってみると、たしかに友人の中にはコンピュータを買ってもらっている人もいたし、学校でベーシックを使ったプログラミングの授業もあったりして触れ合う機会がまったくなかったわけではないことに気付きます。ですが、それでも当時のわたしは全く興味を示しませんでしたし、むしろその意味不明さに嫌悪感を抱いていたほどでした。


ところが、あれから20年近くたった今では、もうパソコンなしでは日常生活に支障が出るほどコンピュータに依存して生きています。
毎日毎日プログラムを作ってお金をもらうことで生計を立て、そして毎晩こうやってブログを更新して好きなことを書き綴っています。もしいま、パソコンが好きかどうか聞かれたら迷うことなく大好きだと答えるでしょう。
これは嫌いが好きに変わったひとつの例と言えます。


改めて私の過去を振り返ってみると、当初嫌いだったものを自身の進路や無二の趣味として選んでいることが多い事に気付きました。


例えば、私は小学生の頃から理科がものすごく苦手で、星座がどうとか花崗岩がどうとか、さらには台車を走らせたらどうとかいう実験にはビタ一文も興味が持てなくて大嫌いな教科でした。義務教育時代のことを思い出すと、理科だけはどの単元も好きだと思ったことはなかったし理科の時間はいつも憂鬱だったことばかりが思い出されるのです。
ところが、その後高校では物理の面白さに気付き、そしてその勢いで理学部へ進学して物理を専攻しました。さらには大学院でも物理専攻するという、中学生当時から考えたら100%ありえない進路を選んでしまいました。その後、さすがに博士課程に行けるほど優秀ではないと気付いて就職したのですが、最近再度物理熱が高まりつつあって暇を見つけては砂川さんの電磁気の本や、物理数学の本を眺めなおしたりしています。やはり30歳を過ぎたせいか、学生の頃よりも理解に至るまでの時間は長く必要なのですが、それでも当時よりも時間に終われず学習出来るためか楽しく勉強出来るので、むしろ今の方が学生時代よりも物理に詳しいんじゃないかと思うことがあります。


話が少しずれてしまいましたが、私にとっての物理学というのも嫌いが好きに変わった例として挙げられます。


あとは映画かな。
私は落ち着きのない性格だったためかじっと座っていることが苦手でして、そのため映画を観るという行為がとにかく苦手でした。座りっぱなしで2時間とかありえねーとか思っていたので、学生時代は友達に無理やり連れて行かれた一回だけしか映画を見に行ったことがありません。映画の街である山形に6年間住んでて映画一本しか観ないなんて、いま思うと卒倒してしまいそうなほどもったいない話なのですが、当時は本当に映画が好きじゃなかったのです。


ここで誤解されたくないのは、私は「映画が好きではなかった」という弱い否定ではなくて「映画は嫌い」という強い主張だったのです。友達に無理やり映画館の前まで連れて行かれたのに憤慨して映画館の前でケンカ別れしたこともありましたし、私は学生時代に大学の図書館でアルバイトをしてたのですが、その図書館によく来ていたかわいい女の子がある日突然声をかけてくるという一生の運を使い切ってしまいそうなハプニングに出会った時にも、「今度映画でも観に行きませんか」と誘われたので「映画は嫌いなんです」とフラグを折ったこともあります。本当にあの回答はなかったな...と今でも後悔の残る一戦ですが、でも映画を観ようと言われたら絶対に嫌いだと主張せずにはいられないほど映画が嫌いだったのです。それにしてもあまりにバカな自分の行動には腹が立つやら後悔するやら、とにかくその日の夜の私の枕は涙でビショビショでした。


そんな私も28歳から突如映画鑑賞が趣味になってしまったわけで、映画を好きになるのがあと10年早かったら...と少々後悔しているのはみんなには内緒です。


じゃあ、嫌いが好きに変わるそのターニングポイントは何だろう?と考えると、正直全然分からないのです。気付いたら好きになってたというのが率直な感想ですが、「気付いたら好きになってた」なんて下手なラブソングみたいでチョー恥ずかしいのでちゃんと考えて見ます。


ひとつだけわかっているのは、ある日を境に突然好きになるということだけです。徐々にじゃなくて突然。
それはオセロで両方をはさまれた時のように色が反転するように、ある日突然、それまでの嫌いが一気に好きへと転化します。これって一体どういうことなんでしょう。本当に不思議です。
ちゃんと考えて結論を出したかったのですが、どうも答えが出ないのでとりあえずそういうこともあるんだぜということで今日は終わり。


気になるので引き続き考えるよー。

*1:入社した当時、サーバ室の一角にこっそりと置かれていたWindows3.1は一度だけ見たことがあるのですがあまりに貧相なUIを見て哀れに思ったことだけを強烈に覚えています